亡き母の手記

母、三瓶末子は、2019年12月肺炎のため天に召されました。

筆者、三瓶和寿が結婚を前にした1995年2月当時、全障研の『みんなのねがい』に寄稿した手記があり、版元の許諾をいただいて、ここに転載します。

結婚するわが子へ

三瓶末子

末っ子の次男から「結婚すること になった」との電話で、夫とふた り、ほっとしているところです。

四人のうち三人が…..

 私には四人の子どもがおりますが、そのうちの三人が今では失明状態です。成人すれば失明するという 「先天性網膜色素変性症」という病気をもって生まれてきたのです。私どもの住んでいる所は、福島県と新潟県の境のほんとの山村で、農業をしてくらしています。このような所に多いとされる病気で、昔からの血族結婚が原因だそうです。

 長男が小学校に入学した頃は少し近眼か位でしたので、友だちもいっぱいでき、家ではばあちゃん子で育ちました。私も他の父兄と共に保育所を作ったり、学校給食には「米ごはんを」と楽しみながらの父兄活動でした。四年生の頃、近眼もだいぶすすみ、眼科医や大学病院もたずねましたが、現代の医学ではどうしようもないというのです。あのときのショックは忘れられません。

 二つちがいの長女は病気しらずの元気な子でした。当時、兄のそのような話を聞き、「治らない病気なんてあるものか。私が医者になって治してやる」なんて言っていました。

 しかしそのときには、もう次女も次男も同じ病気をもって生まれていたのです。どうすることもできない…。私は一人になると泣きました。

盲学校との長いつきあいと 自立への子育て

 長男が中学に入った頃は、だいぶ見えなくなり、会津若松の盲学校に移りました。それから私と盲学校との長いつきあいが始まりました。父兄会に出かけ、遠足や文化祭にも行きました。全盲の人ありその上に体も不自由な人、この子がいては生活できないと逃げる親あり。私の子どもは当時はまだ見えましたから、これは自分のことどころではないと思ったのでしょうか、あせりのような状態も落ち着きました。私にとっても今考えるとほんとに貴重な日々だったと思います。そこの先生方のすすめで筑波大附属(当時教育大)盲学校に入ることができました。

 次男次女のほうも中学に入ってからは、地元の中学の先生と盲学校の先生とで晴眼者と弱視者の教育について話し合っていただき、教科書を拡大していただいたり、なみなみならぬお世話になったことを有難く思い出します。おかげさまで二人は地元の中学を卒業し、長男と同じ学校に入ることになりました。高校三年、専攻科三年、一人六年ずつお世話になりました。「三瓶の母ちゃんは、田舎そのままだね」、こと子どものこととなればなおのこと、方言まるだしですから先生方も大変お困りだったことでしょう。

 私自身は、目の不自由さがわからないからかもしれませんが、子どもたちを特別な子として育てた気はしません。ただどうしても一人立ちしてほしかった。それには、毎日の生活はどんなことがあってもやらなければなりません。それぞれ卒業してのアパートでの一人ぐらしは、皆さんに手伝ってもらいながらもよくやったとほめてやりたい気持ちです。

二人で力を合わせて

 現在長男は病院のマッサージ師、 次女は老人ホーム、次男は卒業後五年目で先生の免許を取り盲学校に勤めています。上の二人もそれぞれ結婚して健常者の子どもをもつ親になりました。そして今度は末っ子の結婚。肩の荷がかるくなったような気持ちです。私など、障害者の親でありながらもなかなかその気持ちをくみ取ることができないのですが、相手の親ごさんの気持ちは如何ばかりかと思われます。どうか末長くご援助くださいますよう祈らずにはおれません。

 あのワラをもつかむ思いで病院通いをした頃がうそのようです。私ども家族にとっても、障害をもつ子どもと生きてきたことが、かえって人生を豊かにしてくれたと思います。

 結婚おめでとう。一人では無理なことでも、二人ならがんばっていけるでしょう。その姿が皆様へのお礼にもつながると思います。(さんぺいすえこ 福島県耶麻郡)

取材・転載協力 全障研 新井田恵子様

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