初雁の空の下で

(カット 大嶋昭彦)

迫りくる失明への恐怖

 私は、あのいまわしい十五年戦争の幕が切って落された、昭和六年(一九三一年)の三月、埼玉県の秩父の町で、当時、旅館を営んでいた両親の間の、五人兄弟の二男として生まれた。しかし、私は両親の期待に反した未熟児であったので、大いに苦労をかけたようだ。幸いに母の献身的な努力によって、出生後、半年ほどで正常児の大きさになり、両親を安心させた、とのことである。

 ところが、その安心も束の間、生後半年たった頃、今度は、おぞましい糸状菌の感染により、頭いちめんに、ものすごい滲出性炎症が発生するという病魔におかされてしまった。

 医師の処置のあやまりも手伝って、数日間、四十度以上の発熱に見舞われ、生死の境をさまよったが、天運に恵まれたのか、ようやく一週間ほどで病は回復に向かった。しかし、それから間もなく両眼に白い霞がかかり、埼玉県は秩父郡野上町で開業し、当時有名であった落合博士に、先天性白内障と診断された。

 もともと先天的に白内障という眼疾を持っていたということであったが、それは手術によって一時期その視力が改善することがあったにしても、そうして得た弱視者の視力は、心身に苦渋の生活を長期間強いられるようなことがあると、まことに危険である。本人がそれと気づかぬ間に徐々に視力が減衰していき、その進行状態によっては、やがて失明への道を歩むこともあり得るとのことであった。

 昭和十六年(一九四一年)の二月、私は順天堂病院の眼科部長、佐藤博士の手術を受け、ようやく両眼共に〇・二の視力を得ることに成功した。これは、以前に他の病院で受けた二回の手術で得られた視力、〇・〇四程度からみると、すばらしい回復で、画期的なものであった。

 私は、この思いがけない視力を得たことを大いに喜び、水彩画を楽しみ、読書に夢中になった。そして当時、流行の模型飛行機の製作も人並に出来るようになって、自分の視力と体力に可能な運動や武道にも勤しむことができるようになった。

 しかし、たとえ視力が両眼共〇・二まで改善されたとしても、戦時下の少国民としての私の立場は、立派な帝国軍人になれる訳ではないので、「非国民」という汚名で呼ばれる悲しい十字架を背負って生きなければならなかった。

 それでも昭和十九年(一九四四年)の三月、突然に右腓骨骨髄炎《ひこつこつずいえん》の発症をみるまでは、私なりに満足な少国民としての日々を送り、登山や海水浴などにも出かけられるようになっていた。この突然の発症は、私の活動範囲を極度に狭《せば》めることになり、足掛け四年半の外科病院への通院生活の続いた苦闘の日々は、心身両面の健康を徐々に衰えさせていった。そして戦後の昭和二一年(一九四六年)三月、高等小学校の高等科二年を卒業する時には、自分自身は気づかぬほどの速さで両眼の視力が減衰していたのであった。

 それに気づかなかった私は、少年野球試合のチーフアンパイアを好んでやり、時折キャッチャーの取り損なったチップボールを何度も左右の眼球に当てていた。

 視力の減衰は、そうした事故によって一層進行していったようである。その年の秋に友人と一緒に映画観賞をしている際、突然に画面がぼやけて見えたことで、初めて異常に気づいたのであった。

 私は大いに驚き、当時秩父の町に疎開していた荒木公直《あらききみただ》医師の開業していた荒木眼科医院を訪れ、その通院治療で完全失明は免れたが、視力はどんなに矯正《きょうせい》しても両眼共に〇・〇一程度にしか回復できなかった。

 もしかしたら、もう俺の視力は元通りの両眼共に〇・二まで戻らないかも知れない。場合によったらやがて完全に失明してしまうかもしれない。

 一瞬の間ではあったが、失明への恐怖、やがて来るかもしれない暗黒の世界への恐怖が、その頃時々脳裏を過ぎていった。それでも私はその度ごとにその忌わしい不吉な想念を強く否定し、いつの日か必ずもとの〇・二程度の視力に回復することを祈念しながら、週三回の通院を続けていた。

 眼科医院への通院が加わったので、外科医院への通院を合わせて二ヵ所になり、一日の殆どを通院と養生のための時間に費やす日々となった。

 そうした日々が続いたある日、化膿性疾患や急性肺炎などの、緊急を要する疾患に絶大な効果を現わすペニシリンという新薬が、大病院などで使われ始めたことを、偶然ラジオのニュースで耳にした。思わず暗夜に光明を得たような喜びを意識したのであった。

 しかし、その新薬を手に入れるにはかなりの高額を要することと、私の右腓骨骨髄炎があまりにも長期間持続しているものなので、果たしてその新薬が本当に効くものかどうか、不安でもあった。

 どういう経路で手に入れたのかは定かではないが、幸運にもその新薬のペニシリンをそれ程の高額ではなく父が購入してくれた。そして昭和二二年(一九四七年)の十月に新薬を併用しながら、右腓骨骨髄炎の大胆な手術を、秩父市の外科医院の院長である柏崎治医師の手によって受けることができた。

 柏崎医師は、元海軍軍医少将の経歴を持っていた。幸運にも手術は見事に成功し、長年の右腓骨骨髄炎は完全に治癒したのであった。ところが、この思い切った手術と入院生活が影響したのか、両眼の視力が更に減衰し、〇・〇一以下になってしまった。

 戦後まもなく高等小学校高等科二年を卒業した私のクラスメイトの幾人かは、その翌年の四月一日から実施されることになった、新学校教育法による六・三・三制教育制度により、新制中学校の三年に編入された。それは、視力の減衰を実感していた私などには到底かなわぬこととわかってはいた。が、それら友人のうれしそうに語り合う新制中学校の授業内容や、明るくのびのびとした活動ぶりを耳にすると、羨《うらやま》しくてたまらず、果てはくやし涙がまぶたの裏ににじみ出てくるのであった。

 そんなくやしさ、寂しさを紛らわすため、また思春期ということもあってのことか、こともあろうにいつの間にか異性に興味を持ちはじめていたのである。今の私の視力でもどうにか見ることのできそうな女性の写真雑誌をこっそり友人から借りて、密かにそれを眺めて楽しむことを覚えた時期でもあった。

 しかし、そうした不思議な快楽的な匂いの漂った一人の境地への埋没も、そう長くは続かなかった。またもや、その年の冬から春にかけて、更に視力の減衰が進行していったからである。

無念、眼球内出血で完全失明

 その頃の私の視力は、もう数値で表現できるものではなかった。日中見えるものは、頭上に広がる空の青さと道の白さ、町ならば道の両側の家の形や田畑や森などの存在がわかる程度、よほど接近しても向かい合っている人の顔の美しさや表情の変化までは見極められなかった。両親達は、私のそんな姿が不憫に思えてたまらなかったのか、私には一言も相談せずに荒木眼科医院の院長と相談した。その結果、以前に私の眼疾を診察し、手術によって改善させた元順天堂病院の眼科部長で、戦後、順天堂大学医学部眼科教授になっていた佐藤博士に願って、手術を受けることを決めてしまったのであった。

 私の意志を全く無視した父の即断に、私は初めて声を荒らげて怒り、拒否の態度を表わしたが、父も一旦決めたことだ、と私の意見を聞き入れてはくれなかった。

 いつもはやさしく私の希望や意見を聞いてくれていた父が、何故これほどに頑固に言い張るのかわからなかった。結局、最後にはそうした父の意見に根負けして、ついにその年の八月の下旬に佐藤博士の手術を受けることに決まった。それでも私自身には少しも両親の心が理解できなかった。

 私が眼疾と手術のことで悩んでいた二三年(一九四八年)の六月の十三日に、玉川上水において太宰治と山崎富栄が入水自殺をし、また、同月二三日には昭和電工事件が明るみに出て世間を驚かせた。更に同月の二八日には福井県に大地震が発生し、死者三千七百六十九人、家屋全壊三万六千戸という大惨事となった。

 ところが、この福井県の大地震の影響で、八月の下旬には埼玉県の秩父地方にも同程度の大地震が起こるという学者の発表が、福井の大地震直後にラジオのニュースや新聞紙上で報道された。そのことがあって、八月に入ると秩父の町はもちろん、秩父郡全体が異様な雰囲気となり、迷信めいた流言飛語が巷で飛び交わされた。

 私の手術は鎌倉市の長谷に疎開していた佐藤博士の住宅兼医院で行なうことになっていたので、気は進まなかったが地震の恐ろしさもあって、やむなく行くことに決めた。

 その日を迎える二週間ほど前からの私は、もしかしたら私が鎌倉に出向いている間に、予告どおりに秩父地方に大地震が発生し、私の家族の者や時折訪れてくれていた友人達の声も、もしかしたら聞き納めになるのではないかと思ったりして、憂うつな毎日を送っていた。

 八月の二十日、両親に付き添われ、私は長谷の佐藤博士の医院へ出向いていった。

 その日の午後、佐藤博士の家に荷物を置いてから、両親と一緒に鎌倉の海岸を散歩した。ザザーッ、ザザーッという磯打つ波の音と、海水浴にうち興じている人々の声が重なって耳に聞こえてくる。私は足元の白砂をサクサクと踏み鳴らしながら、残された視力の両眼を精いっぱい見開いて、頭上に広がる真っ青な夏空と、眼前に洋々と広がっているであろう黒ずんだ青緑色の鎌倉の海をじっと眺めていた。

 「康夫、眼が治ったらここで海水浴ができるな」

父はそう言って半ば慰め、半ば励ましてくれたが私は何故かこの時、今度の手術は失敗するような気がしてならない。失敗したら、この鎌倉の海も空も二度と見ることはないだろうと考えた。望ましからざる不吉な予感がまたまた襲ってきて、迫りくる暗黒の世界への恐怖が私の脳裏にグングン広がっていったのだった。

 そのせいか、私の視力で見られる視野の世界からは、鎌倉の海岸の景色は消え去り、茫漠とした灰色の世界が広がっていくように思えたのである。

 荒木眼科医院の院長の立ち合いで、佐藤博士の医院で行なわれた手術は、博士の話によると、手術そのものはうまくいったようだった。しかし、何が原因かわからないが、私の両眼の眼球内に原因不明の出血が始まったようで、その出血は、わずかずつではあったが、ひと月近く止まらなかった。最後に出血を止める手術をしてようやく退院の見通しがついたが、視力の回復は全く望めない状態になっていた。その時博士は、

 「ひと月近く入院して体力も衰えたので、一度退院し、体を整えてからまた再挑戦してみましょう」

と言い、完全失明したとは言わなかった。予告された秩父の大地震は起こらなかったのでほっとした。

 九月の末に退院してから三ヵ月ほど経った頃、荒木眼科医院の院長が、

「佐藤博士が今度手術をされる前に、手術が成功するように私が軽い手術をしてあげましょう」

と言ってくれた。正直言って私は、その手術の成功を想像してはいなかったが、いやだともいえず折角の好意なので受けることにした。しかし手術の結果は、予想通り再び眼球内出血を起こし、結局、やがて行なう予定であった佐藤博士の手術を断念しなければならなかったのである。

 私の両眼は完全失明という最悪の状態となり、恐れていた暗黒の世界での生活を強いられることとなった。落胆と非嘆が一度に私の胸中を埋め尽くし、一時は狂わんばかりの精神状態に陥《おちい》ったが、手術を半ば強引に勧めた両親の悲嘆、落胆もまた、親なるが故に想像以上のものであったろうと思う。毎夜のように涙声で、私のことを話し合っているのを耳にした時、両親の前ではもう泣き言は言うまい、と決心したのであった。

 私自身は、完全失明であると思ってはいたが、その後もなお、週三回、荒木眼科医院に通院していた。完全失明の状態だったので、家業の旅館の従業員の協力を得て、自転車に乗せられての通院であった。それは、私が点字の学習を始めた年である昭和二五年(一九五〇年)の春まで続いた。

 昭和二一年(一九四六年)の五月三日に開廷された極東軍事裁判は、昭和二三年(一九四八年)の十一月十二日に二五名の被告に有罪判決を下し、同年十二月二三日に東條ら七人の絞首刑が執行された。翌二四日にGHQは、A級戦犯容疑者の岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら十九人の釈放を発表した。またその年の一月二六日には、帝国銀行椎名町支店において、十余名の銀行員が毒薬を服用させられ死亡するという、いわゆる帝銀事件が発生した。翌年の七月には下山国鉄総裁が死体で発見された下山事件、無人電車が暴走する三鷹事件、さらに東北本線松川駅付近で列車が転覆、という松川事件が相次いで発生したが、いずれもその真相は判明せず、謎の事件となった。

闇から夢みる点字の学習

 盲人が点字を読み書きし、その文字を使用して盲学校で勉強にいそしんでいるということは、失明する以前から既に知っていた。

 しかし、私は何故か失明してもすぐに点字を学習しようとは思わなかった。十七歳の秋、全く回復の見込みのないことを知りながら以前と同様、荒木眼科医院へ週三回通院していた。それは、眼科医院の院長やその家族の人達が私に親切であったことと、通院することで私の両親が安心して家業に専念しているように見えたからであった。通院に際しては、我が家の従業員の中の若い娘達が交代で私を自転車の荷台に乗せてくれた。彼女達は少しも不平を言わず、いつも明るい声で私に話しかけてくれたり、一緒に歌を歌いながら町中を自転車で走ってくれたりした。そのおかげで通院が続けられたのである。

 その当時の私は、失明はしても、高等小学校を卒業して職に就いた友人や新制中学から新制高校へ進んだ友人達が、よく訪ねてくれていたので、彼らとラーメンを食べに行ったり、荒川や姿の池のほとりを散歩したりした。また羊山に登ったりして語り合い、歌を歌ったりして楽しんだ。雨天の時などには私の部屋で、彼らが最近読んだという文学書などを読んでもらったりしていたので、一人ぼっちの寂しさをあまり意識することはなかった。

私の家に宿泊した客の中には時折、私に対して、

 「お父さんやお母さんがお丈夫なうちに、盲学校へ行って按摩、鍼灸の技術を修得し、この町へ帰ってきて開業したら沢山の人の治療ができる。人助けだと言って喜ばれるし、またお金ももうかるから一日も早く盲学校へ行った方がいいよ」

と、親切に言ってくれる人もいた。だが、その頃の私には盲学校という世界がなんとなくなじめない世界のように思えていたから、すぐに素直にそうした意見には従わなかった。

 私が点字の学習をしてみたい、と一大決心をしたのは、昭和二五年(一九五〇年)の正月のことだった。

 昭和二五年という年は、サンフランシスコ平和条約が結ばれる前の年だったが、様々の社会的な問題や課題が現れてきた年でもあった。まず一月に、革新政党の社会党が右派、左派に分裂し、また、三月には保守党に属する民主党の一部と、民主自由党が合併し、自由党を結成した。そして一方マッカーサーは六月に共産党員を公職から追放する指令を出し、同月、朝鮮戦争が勃発した。

 これを契機に日本政府は八月に警察予備隊令を公布し、十月には天野文相が、学校行事には日の丸の掲揚と君が代の斉唱を勧める談話を行なった。

 わずか戦後五年ほどの間に、この変化は恐るべきものだといえよう。だが、当時の私は、そうしたことへの深い興味も関心もなく毎日をイージーに過ごしていた。

 私が母の友人に紹介されて、按摩鍼灸業を行なっていた三平勇《みひらいさむ》先生の家を母と一緒に訪れたのは、その年の一月二六日の午後だった。それは、頭上で風が鳴っている冷たい日で、母も私も厚いコートをはおっていた。

 その当時、三平先生は、秩父の町へ数年前疎開してきて以来、ずっと野坂の浅見工場の離れの一室を借りて母君と一緒に居住し、按摩、鍼灸院を開業していた。部屋は六畳一間だったが南向きで暖かかった。お互い初対面の挨拶を済ませた後、

 「先生、お忙しいところ誠にご面倒なお願いで申し訳ありませんが、僕に点字を教えてください。僕もここでようやく盲学校へ行ってみたくなったのです」

と、私の方から訪れた理由めいたことを話すと、三平先生は青年らしく若々しい凛《りん》とした張りのある明るい声で、

 「君が一生懸命やるなら微力ながら私も頑張りますよ」

と言い、更に言葉を続けて、

 「点字の学習は最初は根が疲れていやになることがあるけれど、すぐに慣《な》れて文字が覚えられるようになり愉快になりますから、安心して勉強してください」

と、半ば慰め、半ばさとすように話してくれた。話し合っているうちに知り得たのだが、三平先生は当時二十七歳とか言っていたが、落ち着いた全盲の青年紳士の印象を受けた。国立東京盲学校の師範部を卒業したが、空襲が激しくなったので職には就かず、この秩父の町へ知人の世話で疎開してきたということであった。

 点字機と点筆を使用しての点字の学習は意外にシンドイことで忍耐を要するものだった。正式な点字機の使い方から学習し、第一日めには「あいうえお」と「め」の字を書かされた。触読もやってみたが、これはほとんど読めなかった。先生はさすがに読むのも書くのも素晴らしく速かった。家に帰ってさっそく「め」の字書きと「あいうえお」の字を書いてみたが、うまくいかず、次第に腹が立ってきて、

 「こんな道具を作るやつがいるから苦労して書かなければならないんだ。畜生!」

とどなって、点字機と点筆を放り出してしまった。しかし、よくしたもので、三週間も経つとどうにか大方の文字を覚え、なんとなく短い文章ならば書けるようになった。だが、触読の方は遅々として進まなかった。三平先生は、雑誌を読み、その記事を私に聴写させたり、『点字毎日』という本を私に与えて触読の練習を勧めてくれた。

 四月に入ると三平先生は、私の希望していた国立東京光明寮へ私を入所させる準備を進めてくれた。入所してから難しい勉強に驚かぬようにと、理療科の専門科目中から選んだ解剖学、生理学、衛生学の勉強と、按摩実技を始めたのである。

 ところが、八月の中旬に三平先生の師範部時代の親友だったという、国立東京光明寮の小川教官に三平先生の家で面談した時、小川教官の、

 「こんな若いまだ十代の男子を、光明寮の年寄り連中の中に入れるのは気の毒だ。盲学校に入学するように勧めた方が大嶋君のためになるよ」

という意見で、私の進路は急遽変更。九月から盲学校入学のための学習内容に変えたのである。変更はしたものの、私があまりにも一般的な普通教育の学力が劣っていたので、小学校の四年生用の教科書から取り寄せ、点字書の学習を進めていった。

 せめて、中学部には入学できるようにという目標で、小学部の教科書の全てを復習したのであった。小学部の点字教科書を注文する時、その注文書を書いていた母の涙ぐんでいる様がなんとなく感じられて、何か胸に迫る思いを味わった。

ラジオは心の友達

 ラジオは戦時中からよく耳を傾けていた。戦後視力の減衰が進み、視覚による楽しみを得ることが不可能になってからは、ラジオが私を慰めてくれる心の友となった。

 戦後においてニュースは勿論耳を傾けていたが、その他に相撲や野球などのスポーツの実況放送、ラジオ歌謡や流行歌の流れる歌謡番組、浪曲や落語などの演芸番組、各種の放送劇、その他社会探訪などの記録番組も好んで聞いた。以下、それらについていくつか記憶しているものを挙げ、懐かしんでみよう。

 まず、スポーツの実況放送は、草野球に興味を持ったことから野球の実況放送に熱中するようになり、プロ野球や六大学野球、あるいは高校野球などの放送を友人達と一緒に夢中で聞き、それによって今までほとんど知らなかった、野球に関するある程度の専門知識を得ることができた。

 プロ野球は昭和二一年(一九四六年)の春から戦後の開始となったが、その当時有名なバッターだった川上哲治が赤バットを、大下弘が青バットを用い、盛んにホームランを打ちまくった。特に大下は、この年の一シーズンに二十本のホームランをかっ飛ばし、大ヒーローとなった。また、川上は、弾丸ライナーを赤バットから飛ばし、藤村富美夫は、三七インチの長バットを振り回し、また別当薫は、大きなアーチを描くホームランを何本もかっ飛ばし、私達少年ファンを熱狂させた。

 昭和二四年(一九四九年)の十月にアメリカのマイナーリーグに属する「サンフランシスコ・シールズ」が来日し、日本のプロ球団と十試合ほど行なった。その最後にはオール日本の編成チームで対戦したが一勝もできなかった。それでも、放送を聞く私にはどの試合も息詰まる熱戦に思えた。

 翌二五年(一九五〇年)には政界ノンプロ野球選手権試合のために、アメリカノンプロ球団を迎えることとなった。日本は、選抜チームではあったが、「オール鐘紡」という球団名でこれに立ち向かった。第三戦は息づまるような投手戦の後、延長戦となり一対〇で貴重な一勝をあげた。これらの試合は少年野球ファンを大いに満足させた。そうした少年ファンの熱狂ぶりは、その年の秋に展開された第一回セ・パ両リーグの優勝チームによる日本シリーズの六試合で最高調に達した。今でも記憶しているが、「松竹ロビンス」の小西監督は大島を、「毎日オリオンズ」の岩佐監督は若林を先発させ、投手戦の後、オリオンズの勝利となったが、息詰まるような熱戦だった。

 一方、相撲の実況放送は、戦時中から双葉山、羽黒山、安芸の海、照國の四横綱時代の前から好んで聞いていたし、二度ほど両国国技館に出向き、まだ四本柱の立っている土俵での熱戦を眺めたこともあったので、戦後になってもずっと放送は興味深く聞いていた。

 県立盲学校へ入学するまでの大相撲は名力士、羽黒山、前田山、千代の山、東富士、神風、力道山、増位山などが活躍した。

 戦後、全勝街道を驀進していた羽黒山は、破竹の勢いで上昇してきた。千代の山をも寄せつけず盤石の強みをあらわし、相撲ファンに双葉山の再来を思わせたが、不運にも巡業中にアキレス腱を切るという無念な負傷事故に遭った。それ以後は以前のような強剛ぶりを発揮することができず、時折おもわぬ敗北を喫したのであった。

 横綱になった東富士や関脇の力道山が、その後、相撲界を引退し、プロレスラーに転向したことは、相撲ファンとしては意外であった。

 音楽番組ではまず、のど自慢素人演芸会は、最初『のど自慢素人音楽会』の名で昭和二一年(一九四六年)の一月十九日に開始された。最初は、鐘を鳴らさず、合格者に、

 「よろしい。合格です」

と告げ、不合格者には、

 「もう結構です」

と言うだけだった。その後一年ほど経った後、例の鐘を鳴らすようになった。第一回NHKのど自慢全国コンクール優勝大会は、昭和二三年(一九四八年)三月二一日に、日比谷公会堂で開催された。

 また、流行歌ラジオ歌謡関係の番組では『今週の明星』が特に記憶に残っており、藤山一郎の「夢淡き東京」、霧島昇の「三百六十五夜」、岡晴夫の「青春のパラダイス」、伊藤久男の「シベリアエレジー」、近江俊郎の「湯の町エレジー」、奈良光枝の「雨の夜汽車」、二葉あき子の「恋の曼珠沙華」など。

 ラジオ歌謡では、岡本敦郎の「白い花の咲く頃」「リラの花咲く頃」、伊藤久男の「あざみの歌」「山のけむり」などがよく歌われていた。

 演芸番組では、三遊亭歌笑の登場が私を落語ファンにさせた。古今亭志ん生、三遊亭円生、桂文楽、春風亭柳橋などの落語を好んで聞き、暗くなりがちな気分を一掃させた。特に歌笑の純情詩集を折り込んだ「バスガール」、志ん生の「風呂敷」、円生の「百川《ももかわ》」、文楽の「明け烏」、柳橋の「時そば」は印象が深い。

 特に歌笑は、秩父セメント工場の職員慰安会に招かれて出演したとき、私は友人に誘われて聞きに行った。その卓越した話術と、純情詩集のおもしろさに歓声と拍手をおしまなかった。眼の悪かった歌笑が、思いがけない交通事故で早逝したのが残念でならない。

 浪曲は、広沢虎造の「清水次郎長伝」、鈴木米若の「佐渡情話」、玉川勝太郎の「国定忠治」、東家《あずまや》浦太郎の「野狐三次《ぎつねさんじ》」、三門博の「歌入り観音経」などをよく聞いた。

 東家浦太郎については、興味深いエピソードがある。それは二四年ごろ、浦太郎が秩父方面に巡業中、旅館であった私の家に一泊したことがあった。その時、兄の友人で浪曲が好きな松本忠太郎氏と一緒にその部屋へ行って談笑した。

 それが縁で、翌年、父と一緒に東京の明治座で講演中の『浪曲名人大会』を聞きに行った。偶然、私を見つけた浦太郎夫人に声をかけられ、土産までもらった。このときのことは、今もなお忘れることのできない楽しい思い出である。

 演芸娯楽番組としては、三木鶏郎の『日曜娯楽版』が昭和二二年(一九四七年)十月五日開始されたが、瞬く間に人気番組となった。

 放送劇は、昭和二二年(一九四七年)の七月五日から菊田一夫の『鐘の鳴る丘』が開始され、ほぼ同じ時期に四人ほどの作家の連作による『向こう三軒両隣』が茶の間に流れた。

 それにつけても晩秋から初冬にかけて、こうして夕方から放送番組を楽しんでいるとき、毎晩のように停電があり、放送の途中で、くやしい思いをしたものだ。

 その他、NHKのクイズ番組として、昭和二一年(一九四六年)の十二月三日より和田信賢の『話の泉』、翌二二年(一九四七年)十一月一日より藤倉アナウンサーの『二十の扉』、また昭和二四年(一九四九年)一月三日から青木先生の『頓智《とんち》教室』が始まった。その他開始日は不明だが『私は誰でしょう』などが挙げられる。昭和二一年(一九四六年)の五月六日から開始された『街頭録音』では、街の風景や世相を知ることができ、特に興味を持って聞いた。

 今から考えてみると、こうしたNHKのラジオ放送がいかに私の心を慰め、いやし、かつ励ましてくれていたことかと、しみじみ実感するのである。

埼玉県立盲学校入学

 新たなる未来への期待と不安に落ち着かぬ心を意識しながら私は、三平勇先生に付いて点字教科書の学習に励んでいた。そんな頃の昭和二四年(一九四九年)八月六日に「フジヤマの飛び魚」と呼ばれた日大の古橋広之進が、水泳の一、五〇〇メートル自由型レースで世界新記録十八分一九秒をうち立てた。また、その年十一月三日、ノーベル物理学賞の受賞が決定した湯川秀樹博士の記事を友人に読んでもらった。その時、私は、この世界に誇る二人が、共に天性に加え更にたゆまぬ努力と研究を惜しまなかったということを知って感動し、大いに啓発された。また、昭和二五年(一九五〇年)の一月三日に放送された、NHK『第一回紅白歌合戦』という歌の最大の祭典は、時には暗くなりがちな私の心に、明るさと喜びを与えてくれたのであった。

 過保護になりがちな両親に、両側から付き添われ、埼玉県立盲学校に足を一歩踏み入れたのは、昭和二六年(一九五一年)の四月九日のことだった。その日は素晴らしい晴天であった。県立盲学校ではその日、入学式と第一学期の始業式の日であると同時に、新入生に対する簡単な入学テストを行なう日でもあった。私と両親は、所定の場所で受付を済ませると、東端に設けられた二階建の木造校舎の階下の控室へ案内された。

 「ここが控室ですから、しばらくここでお待ち下さい」

 優しそうな教師らしい若い女性の声が、すぐ側でそう言って出ていった。控室にあてられたその教室には、開け放された窓から暖かな春の陽光がさんさんと差し込んでいて、明るい雰囲気が漂っていた。小学部、中学部、高等部へと、それぞれ入学を希望している者と付き添いが一緒だったので、室内にはいろいろな話し声が聞こえて賑やかだった。しばらくそこで待っていると、名を呼ばれたので、私は立って隣の教室へ案内の人と一緒に入って行った。その教室も明るく暖かな感じだったがこの部屋は静かだった。まもなく数人の人のいる気配が感じられたので、私は緊張して言葉を待っていた。すると、落ち着いたアルトの静かな声で、

 「口頭による面接試験を行ないますから、ここへお座りなさい」

と言うのと同時に、柔らかな女性の手が私の手をそっと取って側の椅子に導いてくれた。

 面接試験の問題は次のようなものだった。

理科系の問題として、

 一 血液が赤く見えるのは何故か

 二 植物の炭酸同化作用とはどんな作用か

 三 ころがり摩擦とすべり摩擦とではどちらが強いか

数学の問題は、

 一 円の面積を求める公式を答えよ

 二 三角形の内角の和は何度か

 三 円柱の体積を求める公式を答えよ

社会科は、

 一 新憲法はいつ公布され、いつから施行されたか

 二 民主主義とは簡単にいうとどんな主義か

国語では、

 一 夏目漱石の書いた小説を一つ挙げよ

 二 あなたが読んだ本の中で、最も感動した書名と著者を答えよ

 以上のような問題が出されたが、はっきり回答できたのは五分の二ほどであり、全く回答できなかったのが二問あった。

 三平先生は、私を国立盲学校の小学部の六年になら編入できるだろうと思い、いろいろと努力を払ってくれていたが、私は、埼玉県立盲学校の中学部一年へ入学することを希望していた。

 この学校を選んだのは、父が、国立東京盲学校の、土足で汚れ、雑然としてどこかに危険の感じられる寄宿舎に、私を入舎させるのを好まず、埼玉県立盲学校へ私を連れて来たのであった。父には、学校が閑静な環境にあるこの盲学校の方が、虚弱な私には最適であると思えたのであろう。だが、当時の私は、虚弱であり意志薄弱だったので、いろいろぶつぶつ不満を言っていたが、とうとう埼玉県立盲学校へ入学することになったのである。

 試験官は協議の結果を私と両親に、

 「大嶋君は高等小学校の二年を卒業しているし、既に二十歳《はたち》になっているのだから、中学部三年に編入してもらうことに決まりました」

と告げた。幾分太めな中年の男性教師の声であった。そこで私は、三平先生が常に話していた言葉を思い出し、

 「いや、僕はとても中三なんかには入れる力はありません。僕の先生は、中一だって難しいと言っているのですから、どうか中三ではなく、中一に入れてください。お願いします」

と、懇願したところ、試験官は、二十歳になった私が低学年に入って不穏な雰囲気を作られては困ると考えたようで、最後にはさかんに年齢のことを持ち出して、とうとう中学部の三年への編入を決定してしまったのであった。

 昼の給食は私にはあまり馴染めそうもないまずい大きなコッペパンと、ぬるい脱脂粉乳であった。昼食の後、午後からは校庭で行なわれた新入生だけを対象とした入学式に参加した。昨年度までは教頭職だった米山教頭がその年から新校長に昇進したこともあって、式辞には熱がこもっていた。私にはその幾分かん高い調子の声がなんとなく坊さんの説教のような感じに聞こえたが、校長が実際に常国寺の住職だということを後で聞き驚いた。

 中学部三年生として式に参加した時、私はもう一人岩田次郎という弱視生が同じクラスに編入したことを知った。

 私の担任は、原田わか教諭という三十歳前後で、最後の面接試験官の一人で、アルトの女性教師だった。原田教諭は、所定の教室に入ると私と岩田に向かって、

 「私は弱視の先生です。このクラスにはあと三人のお友達がいます。あなた方はその三人の人達と仲良くして下さいね。三人のうち一人は女生徒で全盲ですから、特に親切にしてあげて下さいね」

と話した。

 中学部三年の教室は、普通の大きさの教室を境界壁で二分した細長い教室だった。原田教諭の話では、隣は中学部一年の教室だということだった。

 学校でのその日の日程が終わると、私と両親は校庭の南側にある盲学校の寄宿舎(後に南寮と呼ばれた)に行き、そこで舎監の指導で簡単な舎則を聞き、その日から生活する六号室へ案内された。部屋に荷物を置いた後、隣の五号室に集まっていた舎生の中に交じり自己紹介をし、寮長である高等部三年の栗原育夫《くりはらいくお》氏の歓迎の挨拶を受けた。最後に舎監長の市川教諭から、鈴木寮母が病休のため勤務につけないことの報告と、田辺新寮母の紹介があり、二十七歳の若い田辺寮母の就任の挨拶があった。

 私の寝泊まりする六号室は、八畳間で部屋には一間幅で上下二段の押し入れが二つあり、一つの押し入れを三人で使用するように指導された。窓は北側に一間幅のものが一つあるだけだったので、弱視者には部屋全体が薄暗いのではないかと想像された。部屋の南側には一間幅の廊下があり、その先にガラス戸があった。押し入れには上下とも夜具を入れる広い空間と、その下に日常品やその他小物を納めておく引き出しがあった。

 私の部屋の住人は、高等部一年の安喰敏起《あぐいとしおき》氏、引間清造《ひきませいぞう》氏、岩田次郎《いわたじろう》、当摩隆《とうまたかし》、それに私の五人であった。

盲学校での学生生活

 入舎した日の夕食は、どんぶり一杯の麦飯と、どんぶり一杯の味噌汁、それにコロッケがおかずとして付いていた。ご飯の上には二切れのたくあんがのっていた。

 ところが、せっかちな私は、コロッケが二つあると思い込み、すぐにペロリと食べてしまったのだが、実際にはコロッケは一つしかないことを後で教えられ、最初の日から大恥をかいてしまった。大恥は更に昼食のパンと脱脂粉乳と夕食の麦飯の影響のためか、ガスを連発させたことで周囲の者を驚かし、

 「大嶋の三原山は活動が激しいね」

と、皮肉を交えて笑い者にされてしまった。

 翌日、岩田と誘い合って中学部三年の教室に行くと、通学生の山下挂司《やましたけいじ》、渋谷三亀夫《しぶやみきお》、内藤泰子《ないとうやすこ》の三人が既に自分の席についていた。

 日々付き合っているうちに自然と知られたことであるが、弱視の山下は、なかなか機転のきく好人物で、よく動きクラスの中をまとめる級長の役目を果たしていた。親孝行者で毎日、朝夕家の手伝いを欠かさない、ということだった。渋谷は、クラスの中では一番背が高く、ものにこだわらないのんびりした愛すべき人物だった。最初の頃は視力が〇・〇二弱程度あったようなので、自宅から自転車で通学していた。大きな農家の息子らしく大らかで豊かな詩情を持っていた。内藤は、川越市と隣り合わせた当時の山田村から白杖をつきながら元気よく通学していた。クラスでは点字書を読むのが一番早く、また書くこともスムーズだった。さらに彼女は作文を書くことが好きらしく、よく国語の時間に作品を披露していた。それにまた英語も得意で、スペルなどもよく記憶していた。

 二学期を迎えるまでになお大滝順治《おおたきみちはる》、宗像怜子《むなかたれいこ》の二名が加わり、クラスは七名となった。大滝は、弱視であったが、運動神経の機敏なスポーツマンタイプの好男子であった。体育祭では足が速く、選手に選ばれたり、野球の試合などではホームランをかっ飛ばす有能な長距離バッターとして認められていた。宗像は、途中失明の全盲だったが、点字の学習ぶりがまじめだったので、まもなく聴写《ちょうしゃ》も点写《てんしゃ》もトップクラスになっていった。出会った最初の頃は消極的だったが、やがてクラスの誰とも明るく言葉を交わすようになった。

 大滝も宗像も岩田や私と同様寄宿舎生だった。岩田は、普通の中学校から編入してきた弱視だったので、盲学校生活にもすぐに慣れたのか、寄宿舎でも教室でもなかなか積極的だった。手先が器用らしく、職業の時間の按摩の実習ではすぐに要領を飲み込み、上達が早かった。茂木幹央《もぎみきお》が私のクラスに加わったのは、昭和二七年(一九五二年)の四月、私が高等部本科按摩、鍼、灸科一年に進学した時であった。

 寄宿舎の生活は、水道設備が完備されていなかったので、炊事や洗濯、清掃や洗面をするのに、一つしかないポンプ式の井戸で水を汲み上げて行なう他はなかった。学校での清掃も同様に、このポンプ式の井戸を使っていたので、その時間帯は大変な混雑だった。舎生の入浴はそんなことで町の銭湯まで出向く他はなかった。銭湯に行く時は、弱視と全盲の舎生達がお互い助け合いながら、洗面用具持参で、夕食前に済ませていた。

 そんな不自由な生活状態がずっと続いていたので、驚いたことにそれが当たり前のように思えてきたのであった。

 水道の設備が完了したのは約一年後、浴室の整備がどうにか使用できるようになったのが二年近く日数が過ぎてからのことで、考えてみればよくも耐え忍んだものである。埼玉県の障害児教育に対する考え方がそれだけ遅れていたとも言えよう。

 『埼盲沿革史』を見ると、上下水道などの工事については、昭和二六年(一九五一年)の八月に行われたことになってはいるが、私の記憶では、昭和二六年度中はまだポンプ式の井戸を使用していたように覚えている。また、浴室及び脱衣室の改修工事も、昭和二七年(一九五二年)の十二月に開始と記されいるが、私達が満足するような、暖かな湯の満たされた浴槽に体を沈められるようになったのは、それから八ヵ月程経ってからのことだった。というのは、最初、貯湯式の設備だったためか、冷えた浴槽に熱い湯を注いでもすぐに冷えてしまい、日向《ひなた》水のような風呂で、舎生の中にはそれがために風邪をひく者が出たり、またいろいろ要求もあったりして、後に対流式の浴槽に改良された。

 障害児教育の特殊性を生かすための盲聾学校の分離は、大都会を有する都府県などでは既に早くからなされていたが、埼玉県では『埼盲沿革史』を見ると、書類上では昭和二五年(一九五〇年)の一月一日付で分離がなされ、組織を改め、本校は埼玉県立盲学校と改称されている。そして、聾学校は、大宮と坂戸の二ヵ所にそれぞれ分かれて設置され、盲学校は、川越市宮元町の地に残ることになったのである。

 しかし、実質的には盲聾学校が分離したのはそれから二年後の昭和二七年(一九五二年)の七月の末だった。それまでは一棟二階建の木造の古い校舎内を中央階段のところで東西に分け、玄関は両校共有にし、東側を盲学校、西側を聾《ろう》学校とした。そして、校庭も一応その校舎の前のものはそれぞれの学校の使用校庭とした。二棟の寄宿舎のうち、南寮は盲学校、北寮は聾学校で使用するものとし、食堂、炊事場、宿直室、ポンプ式の井戸などは共有のものとしていたようであった。

 その間、昭和二七年(一九五二年)の一学期だけ盲学校の舎生が多くなったので、校舎の二階の西の端にあった聾学校の家庭科実習室を盲学校で借用し、舎生のうちの上級学年の男子生十名を、特にそこで寝泊りさせたこともあった。

 授業の開始と終わりを盲学校ではベル、聾学校では太鼓を使用し、また、食堂では一時盲聾舎生が同時に食事していたので、それは独特な賑やかさであった。だが、学校周囲の環境は、広い田畑で囲まれていたので、春夏秋冬それなりの趣きがあり、学習したり生活したりするには強《あなが》ち悪い環境ではなかったのである。

入学当初の盲学校の授業について

 昭和二六年(一九五一年)に中学部三年に編入した私は、そこで初めて盲学校の中学部三年生としての授業を受けた。その当時の授業科目の時間数と内容を懐かしみながら記してみると次のようなものだった。即ち、理科四時間、数学三時間、国語四時間、社会四時間、歴史二時間、英語三時間、家庭科二時間、職業(主として按摩実技)二時間、図工二時間、音楽二時間、体育三時間、ロングホームルーム一時間、クラブ活動二時間で、総計一週三四時間であった。教科書は、活字書も点字書もみな不揃いの上に生徒達への配布が遅れぎみだったので、授業はなかなか時間表通りには進まないようだった。教科書はそのほとんどが文部省検定済みのものであったが、点字書の発行は「点字毎日」から発行のものと「静岡富士根園点字発行出版所」発行のものが使用されていた。

 次に、教科の内容と担当教師について簡単に記すと、理科の福沢教諭は、五球《きゅう》スーパーラジオを組み立てるのが趣味で、理科系に詳しい教師だったが、実験をあまりしなかったのはいささか不満だった。しかし、授業そのものは面白かった。数学の原田教諭は、私の担任だったが、本当に数学の授業が好きらしく、非常にはりきって授業を進めていた。社会は清水、横山の両教諭がそれぞれ二時間ずつ担当していた。清水教諭は『文化遺産』の教科書を用い、授業の最初の十分間は毎回新聞を読んでくれていた。『社会の政治』を教科書とした横山教諭は、授業の中でとき折会議方式を取り入れ、授業を楽しく進めていた。国語と英語は、大原教諭という女性の教師が担当してくれたが、大原教諭は熱心に作文の指導をしてくれた。歴史と音楽は村田教諭が担当していた。村田教諭の専門は音楽なので、生徒の詩に曲をつけたりして指導していた。歴史の授業の時は極めて個性的で、教科書はあまり用いず、岩波新書の『日本史講義』という参考書を用い、科学的な思考で歴史を眺めることを教えてくれた。

 家庭科と図工と職業とロングホームルームは原田教諭の担当だった。特に、職業という教科は教科の中でも異質で、盲学校であるせいか主として按摩実技を行なっていた。後でわかったことだが、原田教諭は普通教科の他に、理療科の教科も指導する教師だったので、職業の授業担当は当然のことであった。家庭科の授業は私のクラスだけの授業だったが、職業と図工は中学部全体の共同授業であった。共同授業といえば体育の授業も同様で、これは清水、横山の若い両教諭が担当していた。授業内容はラジオ体操に似た準備体操を行なった後、たいがい盲人野球を行なって楽しんでいた。

 クラブ活動は、生徒会の内容と共合されていたようであったが、授業時間としては土曜日の第三、四時間目に組み込まれており、それぞれ一時間ずつ所属クラブ活動の内容が変わっていた。私は三時間目に演劇クラブ、四時間目には合奏クラブに加入していた。演劇クラブの主任顧問は福沢教諭で、合奏クラブの主任顧問は、村田教諭であった。

 生徒会は、小学部から高等部まで八十人ほどの児童生徒全員が加入し、その年の生徒会長は栗原育夫氏であった。

 ただ考えてみると、一人の教師がいくつもの授業科目を担当していたことは、ちょっと不自然なことのように思えるが、当時の県立盲学校への教員の人数配当が十分でなかった事情を想像する時、これもやむを得ないことと思われるし、また生徒達もそういうものだと思っていたので、それほどの不満事項にはならなかったのであろう。しかし、授業にあたる教師達は、大変な努力を強いられていたことが想像できる。

盲学校生活の中での友人たち

 昭和二六年(一九五一年)の春、盲学校へ入学した私は、多くの友人を得ることができた。ここではまず、最初の三年間に得た友人のことについて簡単に記すが、あくまでもこれは私の偏見と独断によるものなので、全ての人について知り得ないこともあることをお許し願いたい。ものは順なので、上級学年生の方から記していこう。

 栗原育夫氏は、私の入学当時高等部三年生の弱視生であったが、いつも新聞によく目を通し、同室の先輩諸氏に読んできかせていた。文才に優れ、国語が得意だったので、入学当初の私はよく教えをこうたことがあった。新井勘七《あらいかんしち》氏は、三十歳を超えた全盲の先輩だったが、憲兵軍曹だったとかで、どことなく凄味が感じられた。しかし、明晰な頭脳の持ち主で法律論的な考え方で社会の情勢をよく眺めていた。新井宗作《あらいそうさく》氏は前者二人と寄宿舎では同室だった。新井宗作氏もやはり元軍人で自動車部隊に所属し、満州方面で活動していたということだった。丸々と太った体格の良い好人物で下級生と一緒に真面目に良く野球などを行なっていた。私がつい親しさに甘えて「宗ちゃん」と言ってからは、それが氏の通称になってしまった。氏は弱視だった。

 平松富次《ひらまつとみじ》氏も同様に元軍人だった。新井勘七氏と同様全盲で三十歳を超えていた。通信兵だったということもあってか、記憶力は抜群で、経穴《けいけつ》の名称や部位などをよく記憶していた。塩野祐作《しおのゆうさく》氏は全盲の通学生であるが、高等部三年生の中では年齢が若く、ユーモラスな一面があり、面白い新作童話を書いては披露して私達を楽しませてくれたし、ハーモニカの演奏も巧みであった。

 藤間善造《ふじまぜんぞう》氏は、新井勘七、新井宗作両氏と同クラスの高等部二年だった。合奏クラブの部長らしくバイオリンやハーモニカを器用に演奏する好人物の弱視生であった。

 安喰敏起《あぐいとしおき》氏は私の一級上の高等部一年だったが、入学当初から「俺は必ず一人前の立派な按摩鍼灸師になってみせる」と初心《しょしん》を表明し、終始そのことを目指して真面目に頑張り続けた弱視生だった。氏は東京の板橋の出身だったためか私のような田舎者と違い、全てのことについて機敏に行動していた。

 早川光子さんは、高等部三年の弱視生だったが、まるで寮母のように小学部の下級生の面倒を良くみていた。町の銭湯などへもたった一人で十人近い全盲の小学生を連れて行くという、信じられないような努力を払ってくれていたのが印象的であった。

 池田米子《よねこ》さんは、安喰氏と同様一級上の高等部一年生だった。頭脳が優秀だけでなく、演劇活動や文芸活動も達者な全盲の生徒で、良く机に向かって文学書を読んでいた。

 なお、中学部の一、二年の友人達のことについては「職業という授業」のところで記すことにする。

 青木五郎は、小学部六年の全盲生で、私が入舎して最初に言葉を交わした友人だった。彼はオルガンを演奏するのが巧みで、ウエーバーの「狩の歌」とか、シューベルトの「菩提樹」あるいはドボルザークの「家路」などをきれいな和音を加えながら演奏していた。

 小野隆作《りゅうさく》、中村文夫《ふみお》も青木と同様小学部の六年生だった。小野も中村も理数的な科目が得意だったが、小野は得に数学が、中村は理科が優れていた。中村は図工も得意で、竹を薄く削って栞《しおり》を上手に作っていた。小野も中村も全盲生である。

 村田勇《いさむ》と金子作次郎《さくじろう》は小学部の五年生だったが、村田は体格の良い弱視生のスポーツマンである。得に野球が好きで盲人野球のピッチャーをしていた。金子は全盲生であるが、読書が好きで特に歴史的な知識に優れていた。また野球も好きであった。

 川口暁子と小山淳子は小学部六年の全盲の通学生で、いつも仲良く二人して登校していた。川口は武州竹沢から東上線で通っている少女で、歌声が極めて大きいのと向学心に富んでいたのが印象的であった。私が郷里から寄宿舎へ帰る時、時折電車の中で出会うと、彼女は読んだ小説などについてよく話してくれた。小山は点字の読み書きが速かったので、遅い私はその点で大分助けられた。彼女は歌が好きで歌謡曲の歌詞をよく知っていた。

 飯島よしは小学部四年のその当時は〇・〇一程度の視力を有する少女だった。甲高い声の持主で、足が速く、鉄線競走ではいつも一番だった。私が入舎して言葉を交わした最初の少女でもあった。

 昭和二六年(一九五一年)の四月十一日に突然アメリカのトルーマン大統領は、GHQのマッカーサーを解任した。また同月二四日には、国電桜木町駅で車両が二両焼失する事故が起きた。前年の六月に勃発した朝鮮戦争はなお続き、そのためか日本の鉄鋼産業が好景気となっていった。同年の九月八日にはサンフランシスコで平和条約が締結《ていけつ》され、日本はようやく晴れて独立国となった。しかし同時に日米安全保障条約も調印することとなり、以後日本はアメリカの紐付《ひもつ》き独立国となってしまった。こうしたニュースは、おおむねラジオから知らされたが、栗原氏にも時折新聞を読んでもらい、知識を新たにさせられたのであった。

職業という授業

 私が中学部の三年に編入した年に受けた授業の中に特出すべき授業として「職業」という科目名の授業があった。これは当時、盲学校の生徒が卒業後その生活が保証できる職業として、理療業が最も優れているものだと盲学校の全国的なレベルでそう考えられていた。それが故に一般に多くの盲学校では、中学部の生徒のうちから理療というものに親しませ、少しずつそれを認識させる、いわば導入的な意味合いの目的で週二時間授業という形で組み入れたようであった。したがって、埼玉県立盲学校の中学部でも週二時間、按摩実習室で原田教諭担当の授業を受けていた。その当時、実技室はその部屋一つしかなかった。理療の実技といっても導入的なものなので、ほとんどが按摩実技だった。原田教諭はその年、私達の担任である他に『中学数学』という文部省検定の割に難しい教科書を使用し、私達に数学を教えていた。最初の頃は職業の授業でも数学の教師というイメージが強く、何となく職業の教師にはそぐわぬように思えてなかなか馴染めなかった。授業そのものは中学部に所属する十数名の生徒が一堂に集まっての合同授業なので、何となく賑やかで落ち着かない一面もあったが、反面、一遍に多くの友人を持つ機会を得たので、楽しい授業にも思えた。一年間で学んだ理療の実技の内容は、頸肩背部《けいけんはいぶ》と腰臀部《ようでんぶ》を中心にした按摩の実技の概要であったが、原田教諭は、私のような全くの初心者にも丁寧に手を取って優しく指導し、按摩の意義などについて簡単に話してくれていた。

 私は、そのうちに十数名の生徒達の中でその授業にすっかり馴れ親しむことができた。ところが、かなり按摩として様《さま》になっている者が半数近くいるのに気づき、大いに驚かされた。そこで、

 「何故、君達は私と同学年あるいは下学年なのにそんなに上手なんだ?」

と、クラスの仲間の一人に問うてみた。すると、仲間の一人は何の屈託もなく、

 「僕達は三年ほど前、理療業の制度が変わる時、小学部の児童であっても年齢が十二、三歳である程度の体格の者は、短期間集中授業を受けることができたんだ。そして按摩師の資格試験を受けて合格させてもらったのだよ」

と、答えたのだった。ちなみにその当時の試験の模様を問うてみると、それは極めて簡単なもので、按摩師の試験の場合(あるいは視覚障害者のみかも知れないが)はペーパー試験はなく、試験官の頸肩背部を揉みながら、質問された骨や筋の名称や按摩手技の種類を答える程度のものであるということだった。しかし、鍼師、灸師の試験の場合は、一応ペーパーテストと実技テストの両方があって、かなり難しい試験だということであった。

 そういう特令試験めいたことがあったので、私のクラスの山下桂司《けいじ》、渋谷三亀夫《みきお》、内藤泰子《ないとうやすこ》、中学部一年の石井盛夫《しげお》、守谷茂《しげる》、高橋宏《ひろし》の六名は既に按摩師の免許を取得していたのであった。

 いかなる理由でそういうことが行なわれたのか、原田教諭に問うてみたが、詳しい説明をしてもらう機会を持てなかった。後になっていくつかの資料で調べてみると、それはおよそ次のような事柄であった。

 昭和二二年(一九四七年)の九月二三日に突然、「按摩、鍼、灸の営業停止、特に非衛生なるが故に盲人には不適応」という指令が厚生省を介してGHQから発令されたのだった。これは、按摩、鍼、灸を業とする業界や理療師を養成する盲学校や養成施設の教師達にはまさに青天の霹靂、寝耳に水に等しいショッキングな指令だった。そこで、教師達は教え子達の生活権の危機を知って団結し、業界とも密接に連絡を取り合い、何度も厚生省当局を通してGHQへの交渉を繰り返したのである。そうした一方、按摩、鍼、灸の業の内容にかねてから深い理解を示していた国立大学の学者達にも実状を訴え、理療業の意義を証明する科学的な論文を多数執筆してもらい、応援してもらったのであった。

 二ヵ月半の必死の交渉の繰り返しや国会へのデモなどが功を奏したのか、ようやく同年十二月三日にGHQから許可が下り、六日に衆議院、七日に参議院の議決を経て、遂に十二月二十日に法律二一七号、即ち、按摩・鍼灸・柔道整復等営業法『旧あはき法』が公布され、翌二三年(一九四八年)の一月一日より施行となったのである。GHQの許可が下りたのは、勿論前述した交渉やデモなどを含めた総動員的な運動の影響が大きかったこともあるが、もう一つ許可した理由の中には、GHQが多数の日本の庶民に秘密裏にアンケート調査を行ない、この業への理解者、信頼者が八十パーセント以上もあるという結果を得て納得したことも、判定のための大きな要因になったのであった。

 であるから、GHQは、法律二一七号を制定するにあたり、次のような条件を提示したようであった。即ち、(1)三療師(按摩師、鍼師、灸師の総称)の資質の向上を図るために基礎医学及び臨床医学知識を学校教育の中で指導すること。(2)三療の効果を理論的、科学的な立場で研究を進めていくこと。(3)法によって規定された施術所で施術を行なわせ、消毒等を怠らず、非衛生的な業務でないようにすること。(4)しっかりとした学校教育の中で知識と技術を修得させ、検定試験に合格した者のみに免許を与え、按摩、鍼、灸の各資格を与えることなどが重点として盛り込まれたのである。

 このようにして、法律二一七号、即ち旧あはき法が制定されたのだが、先輩諸氏の話によると昭和二三、四年(一九四八、九年)はまだ戦後の混乱期でもあったのか、事実それ以前の「営業取締規則」の中で三療業を学校教育により、あるいは徒弟の形で学習し修めてきた者がほとんどであった。言わばそれは営業取締規則からの移行期でもあったということで、移行措置の形で都道府県のほとんどが特令的に三療業の資格試験を行なったようであった。

 そういうことで、当時はたとえ小学部に所属する者であっても、十二、三歳になれば資格試験を受けられたので、私が入学した当時の中学部の友人の中に、按摩師の資格を持っている者がいても不思議ではなかったのである。しかし、そんないきさつを全く知らなかった当時の私は、免許を持っている彼らがとても羨しく思えたのであった。

 さて、私は職業の授業を受ける間に、合同授業なるが故に、私のクラス以外の中学部一、二年の友人達とも楽しく会話することができた。ここで、その友人達の印象をちょっと記しておこう。

 石井盛夫《しげお》は、中一の弱視の通学生だったが、背が高く体格に優れ、スポーツは特に野球を好み、いつもピッチャーマウンドに立ってスピードボールを投げていた。

 守谷茂《もりやしげる》は、石井と同じ中一の全盲の通学生で文学を愛し、なかなかの雄弁家であり、また歌もうまかった。弁論大会にはよく参加して好成績をあげていた。

 高橋宏《ひろし》も中一の全盲の中学生だったが、実直な性格らしく免許を生かし、家庭で業を行ないながらほとんど休まず真面目に登校していた。彼は、按摩師の他に鍼師の免許も持っていた。

 田口幸夫《ゆきお》は、同じ中一の全盲の通学生。ちょっとひ弱な感じの好人物で、ひょうきんなところがあり、とんちもあったので、みんなから愛されていた。記憶力に優れていて英語のスペルの記憶は抜群であった。

 金子清は、中一の弱視の通学生だった。恋愛小説めいた文章を書くのが得意で、時折なかなかの傑作を書いていたようだった。

 白根泰三《しらねやすぞう》は、弱視の寄宿舎生だったが、学令児のためか体格が小柄で、職業の授業の中で按摩実技を行なうにはいささか痛々しく気の毒なようだつた。

 当摩隆は、中二の全盲の寄宿舎生であった。ずんぐりした丸味のある好人物だったので、「西郷さん」というニックネームが付いていた。手が厚ぼったかったので、按摩をしてもらうと気持ち良かった。

 高野宗吉《そうきち》は、当摩と同じ中学部二年で、当時弱視の通学生だった。学令児だったので、当時は白根と同様小柄な体格だったから、職業の授業の時間は痛々しく気の毒に見えた。しかし、手先が器用だったので、図工の時間などでは鳥籠などを上手に作り、周囲の者を驚かしていた。

 以上、これはごく表面的な印象のみを記しただけのことであるが、こう書いてみるとあの入学当時の中学部三年の頃が鮮やかに思い出され、私をあの頃の心にまで若返らせてくれるのである。

八分講談物語と土曜日の読書会

 埼玉県立盲学校へ入学し、寄宿舎生活を始めるまでは親戚などに一週間ほど世話になる以外は、家を離れたところで寝泊りしたことはなかった。だから二十歳の春を迎えたにもかかわらず、盲学校の寄宿舎生活にある種の不安をもっていた。

 「俺は意気地なしだから、すぐにホームシックにかかって家に帰るのではないか?」という動揺がいつも心の奥に存在していた。

 ところが、実際に寄宿舎生活を始めてみると、私はすっかりその中に馴染んでしまい、ホームシックにも五月病にもならず、楽しくその日の生活を送ることができた。寄宿舎の食事は決して恵まれた内容ではなかったが、「まあまあこんなものだろう」と思っていたので、別に不満もわかず、一日の生活日程もそれほど苦にはならなかった。ただ、寄宿舎にラジオが一台しかなかったので、ちょっと夕食後などは淋しい感じがした。夕食後六時三十分から一時間の自習時間は、一応机に向ってはいたが、何となく憂うつで教科書を読んでもものにならなかった。だから、自習時間が終わって自由に会話のできる時間が来ると生き返ったように楽しい気分になった。

 学校の図書は、とても図書室とは呼べない半ば物置のような狭い場所に、点字書とわずかな活字書とが棚に並べられていた。暇にまかせて調べてみると、特に点字書は新しいものはなく、理療の専門書が多く、文学書や一般小説の類のものは極めて少なかった。十七、八巻の吉川英治《えいじ》の『宮本武蔵』や黒岩涙香《くろいわるいこう》の訳したビクトルユーゴの『ああ無情』全三巻の点字書など他十数種類のものがあるだけだった。

 生徒、児童達の中にも日本点字図書館から本を借りて読む者は極めて少なかった。だからその後、毎週土曜日の夜に開かれた児童と生徒のための、寮母の朗読サービスによる読書会はかなりの人気を博していた。私も読書は好きだったので、時間の許す限り読書会に参加していた。だが、始めのうちは特に児童向けのものは偉人伝や童話や真面目な少年小説めいたものが多かったためか、生徒向けの読書会ほどは人は集まらなかった。

 それは五月の連休が終わって寄宿舎へ戻ってからだったと記憶しているが、

 「俺が面白い話をしてやろうか」

と私は突然気まぐれにそんなことを言ってそこに集まっていた七、八人の少年、少女の前で南洋一郎《みなみよういちろう》の書いた『新ターザン物語・バルーバーの冒険』という密林冒険物語を始めた。それはアフリカの奥地の猛獣が吼《ほ》え叫ぶ密林や草原を舞台に繰り広げられた、たくましいターザンのようなバルーバーという青年の冒険物語だったが、一同が余りにも真面目に聞いてくれていたので、私は思いがけなくもそれにのめり込んでいった。そして夢中になって休みもとらず、いつの間にか夕食の鐘の鳴るまで約二時間語り続けたのであった。

 ところが、この物語が彼らに意外に気に入られて次の日も話すことになった。このような猛獣が吼え狂う凄まじい密林の物語は点字書にはほとんどなかったので、盲学校の少年少女達は、その後私が語り続けた長編連続冒険物語を楽しみにするようになっていった。私も下手な自分の話でも連続して聞いてもらえるとあれば、やはりうれしかったので、いい気になって要求されるままに続けていたのであった。

 物語をする時間帯はだいたい午後の三時半から五時半頃までの二時間ほどで、一週間最低三回は話をしていた。物語の最初は、前述したように南洋一郎の書いた数冊連続の『新ターザン物語・バルーバーの冒険』だったが、その後、同じ著者の『潜水艦銀竜号』などの海洋冒険物語も話した。

 二日ほど過ぎて、もうわずかで夏期休暇に入ろうとする時期になった頃、私の語る連続物語の様子を見ていた同室の安喰氏が半ば冗談まじりに、

 「お前はうそ八百のような話をよくもあんな風に連続でできるものだな。俺に言わせれば、まさにあれは『八分《はちぶ》講談』即ち、うそが八分で真《まこと》が二分しかない話だなあ」

と言って冷やかし、私を笑わせたが、確かに私の読んだ小説をアレンジして物語風にしたのだから、八分どころか十分全部がうそであることは事実だった。

 八分講談を続けたためか、聞いている者の中には熱帯地方の動植物に興味を持つ者がでて、動植物図鑑などで調べる者もいた。お陰で私の方が彼らから逆に教えてもらうこともあって楽しかった。

 物語を聞いてくれたレギュラーメンバーには、小野隆作《りゅうさく》、中村文夫、小松博、金子作次郎、鈴木栄子、吉野千枝子、田口貴美子、堀越辰江《たつえ》、宇田川くになどがいた。

 その後、通学生徒の要求もあって、校舎内で物語ったこともあった。通学生としては、長根清平《ながねせいへい》、木村功《いさお》、山中栄子などがいた。

 その年の二学期からは、山中峯太郎《みねたろう》の軍事探偵物語として有名な『アジアの曙』とか、『大東の鉄人』など、海野十三《うんのじゅうざ》の『宇宙船隊』や『太平洋魔城』の科学冒険物語、江戸川乱歩の傑作、名探偵明智小五郎の登場する『怪人二十面相シリーズ』の他に、高垣眸《たかがきひとみ》『怪傑黒頭巾』や『まぼろし城』、吉川英治の『天兵童子』などの少年時代小説なども物語った。このように八分講談を続けているうちに、いつの間にか二年が過ぎた。三年目には『ソロモンの洞窟』『類人猿ターザン』『宝島』『ロビンソン漂流記』などの外国ものを選んで物語った。

 物語を聞いてくれるメンバーも少しずつ変わっていき、長根、山中、木村の三人の通学生は二年目の終わり頃から参加するようになった。後から参加した者には、最初の頃の物語をもう一度物語ったこともあった。

 一方、土曜日の夜の読書会は、年を経るごとに盛況となり、寮母先生も朗読が上手になっていった。その頃読まれた本の中には一度私が読んだものもあったが、よい機会なので再び読書会に参加して聞かせてもらった。

 読書会で読んだ青年学生用の本をいくつかあげると、富田常雄《とみたつねお》の『姿三四郎』、林芙美子の『浮雲』、志賀直哉の『暗夜行路』、吉川英治の『鳴門秘帳』、アンドレジイドの『狭き門』『田園交響楽』などがあった。

 私が八分講談に悦に入り、読書会を楽しんでいる頃、昭和二七年(一九五二年)の二月に日米間に行政協定が調印され、三月にGHQが日本の大企業に兵器製造の許可指令を出すという恐るべきことが起こった。これは、朝鮮戦争がまだ終わらなかったことの影響かもしれないが、平和を愛する者の中には大きな問題として取り上げられた。

 そんな折の五月に白井義男がボクシングの世界フライ級タイトルマッチで、日本人で最初の世界選手権を獲得するという明るいニュースが日本中に広がった。また、同年七月十九日から八月三日まで、フィンランドのへルシンキで第十五回オリンピック大会が聞かれ、日本は戦後初めて参加した。水泳の古橋は何故か奮わず、一、五〇〇メートル自由形で、橋爪が二位の銀メダルを取る成果をあげるだけに終わった。

 一方、同年七月三一日に政府は保安庁法を公布し、警察予備隊を保安隊に変え、海上警備隊を新たに発足し、十月十五日より施行させた。そうした流れとして、翌二八年(一九五三年)四月に、政府は石川県の内灘村に米陸軍の試射場を設けるように申し入れ、六月には使用反対のための、農民の座りこみ抗議行動が開始されるという問題に発展した。しかし、八月に朝鮮戦争の休戦協定が調印され、朝鮮戦争は終わりを告げ、落ち着いたように見えた。

体育祭

 私は、盲学校へ入学する前は三平先生から一応聞いてはいたが、正直を言うと盲学校で体育祭のような体を激しく動かすようなことは、危険を伴う恐れがあるので行なわないものと思っていた。しかし、入学して間もなく、それが毎年秋にあるということを教えられ、本当に信じられない思いであった。だが、体育の時間で盲人野球を何度も経験する中で、視覚障害者が驚くほどの俊敏さで走り回ったり、ボールを打ったり、打球をつかむ姿を知って本当に驚かされ、自分も練習さえすればあんな風にできるのかもしれない、と思うようになった。そう思ったので、一応野球クラブに加入したが、あまり真面目に練習には出なかった。

 夏期休暇も終わって九月の中旬になると、体育祭の練習が授業時間を少しずつ変更されて開始され、次第に熱が込められていった。

 私が最初の年に経験した練習は、ボール送りと棒倒し、それから円周走と四〇メートル鉄線競走それに紅白対抗の綱引き競技だった。盲学校は、生徒数が少ないので競技はほとんどが紅白の二手《ふたて》に分かれて行なわれていた。個人レースと言えども順位によってそれなりの点数が付けられ、紅白の総点数の中に組み込まれていた。だから、個人競技でも団体競技でも気を許すことはできなかった。

 私が初めて参加した盲学校の体育祭の中で、その競技に慣れるのに時間を要したものに、鉄線競走と円周走の二つがあった。これは、全盲でも自由に走ることができる盲学校ならではの競技で、初めてそれを教えられた時は、よく考えたものだなあ、とつくづく感心させられた。

 私の知り得た鉄線競走というのは、節を抜いた短い竹筒を通した丈夫な鉄線を四〇メートルほど伸ばし、その両端をしっかりと地面に固定した一定の高さの木の枠に結び付けておいたもので、全盲の走者が竹筒を掴《つか》んで線に沿《そ》って全力で走るものであった。この競技は、そのような鉄線を四本張って紅白リレーをさせたり、また四人一度に走らせたりする方法も行なっていた。

 円周走というのは、グランドの中央に鉄製の三〇センチほどの杭を打ち付け、それに細い丈夫な麻縄を結び付け、その一方の端に手で掴めるようにリングが付けられているものを用意し、全盲の走者がその麻縄をピンと引張りながら鉄杭の周りを走るというものであった。私が初めて行なった頃は、長さが一〇メートル程の麻縄だったが、最近ではもっと丈夫な材質のロープに変わっている。この競技はこのロープを杭に二本付け、次から次へと走者を走らせるリレー競技も行なうことができる特異な競技であった。

 その年の盲学校の体育祭は十月の第二日曜日に行なわれた。学校のグランドは聾学校と二分されていたので狭かったが、八十人ほどの児童、生徒の楽しくうれしそうな声がいっぱいに響いていた。弱視の仲間の話によると、色とりどりの万国旗が頭上に飾られた下に来賓席や観客席が設けられ、一部テントも用意されていた。白線がくっきりと引かれ、体育祭の雰囲気を充分にかもし出しているようである。

 開会式の校長の挨拶も市川教諭の競技上の注意事項も、児童、生徒達はうわの空であった。四〇メートル鉄線競走が始まるともうグランドは応援合戦の賑やかな声で沸きかえっていた。薄曇りの空らしかったが、雨の心配はなさそうだった。私は鉄線競走で二位の成績を取り、幸先の良いスタートだった。

 弱視の男子は二〇〇メートル、女子は一〇〇メートルを普通児のように走っていた。クラスメートの大滝はランニングフォームがきれいなのと、足が速かったので弱視の中ではひときわ目立っていたようだ。

 団体競技のボール送り、棒倒し、円周リレー、鉄線リレー、二人三脚など、どれもどれも手に汗を握る競技だった。

 初めて盲学校の体育祭を見学した父母達は、恐らく皆、こんなことが自分の子供に出来るのだろうか、という疑問と、実際に目の前で子供達が運動している様を見て、心から喜んだことだろう。そして複雑な気持ちにさせられたに違いない。何故かというと、実際に競技を行なっている私自身がそう思っているからであった。

 体育祭はその後、年を経るごとに規模が大きくなって朝から花火があがり、団体競技にも騎馬戦や長下駄競走、障害物競走などが加えられ、一層楽しさが増していった。だが、私が在学中の六年間には、まだ仮装行列や組み立て体操のような見学者の目を一層楽しませる種目は、プログラムには載らなかったから、一般の小・中・高等学校の体育祭のプログラムと比較すると、やはり前近代的な形の体育祭だったのかも知れない。けれども私にとっては忘れることのできない秋の祭典の一つであった。

学芸会

 昭和二九年(一九五四年)の秋に、埼玉県立盲学校では文化祭を行なうことになった。その当時県内の各高校などで、文化系の校内行事や生徒会行事を一括して十一月の文化の日を中心にし、文化祭という学校祭の形で催す傾向が広がっていたのに合わせ、生徒達の要望も取り入れて、その年から始められた。しかし、それ以前は、校内の文化系の学校行事や生徒会行事は、冬休み後、三学期中のどこかで、主に中間及び期末試験の後でそれぞれ年一回の割合で行なわれていた。

 私の入学した昭和二六年度の当時はまだ聾学校と同居していたので、校舎内では学芸会を行なうための十分な広さの講堂などはとても望めなかった。だから、階下の一番広い教室を会場に充て、それでも小規模ながら舞台なども設けて全員協力し合って行なった。観客席には毛布を敷き、その上に生徒、児童達と教職員や父母達が鮨詰めの形で座っていた。

 舞台劇の際の舞台装置などはほとんどなく、ポスターカラーや絵の具で描いた舞台背景がある程度のものだった。放送劇や朗読劇を演じる時には舞台の幕を閉め、スピーカーを通して声のみが聞こえるお粗末な方法をとっていた。しかし、それでも児童、生徒達や彼らを指導する教師達は皆張切って舞台での出番を心待ちにし、舞台ではまた日頃の練習の成果を十分に発揮させていた。

 私の所属していた演劇クラブでは、菊池寛の傑作である『父帰る』という舞台劇と、作者名は不明だが、少年少女用の放送劇『小さな願い』の二つを発表した。私は後者の放送劇に参加した。グループの中では、私が最年長だったのでいささか不安だった。劇の内容は小公子や小公女の著者として有名なフランセス・バーネットの少女時代の逸話を劇化したもので、母の看病をしながら貧しい生活の中で小説を書くことへの夢を追っている少女フランセスと若い青年医師バーネットとの出会いの物語であった。私の役はその青年医師バーネットで、少女フランセスは小四の金子なよ子が演じていた。

その他にこの劇には母親役の渡辺美智子、フランセスの弟妹の役の林利之《としゆき》、戸田克枝《よしえ》、農夫役の成川米吉、郵便配達人役の村田勇などが出演し、木村功《いさお》の擬音効果やバックミュージックに乗って滞りなく進行していった。ただ、その当時はマイクはメインマイク一本しかなかったので、台詞を言う時には代り番こに出演者がマイクに口を寄せて演ずるより他はないという、実に苦しい工夫を要するものであった。それでもよくまとまって出来たので、観客には好評だったが、それにはナレーターの役を務めてくれた大澤由子《よしこ》教諭の、絶妙なうまさが大分手伝っていたと思っている。

 舞台劇『父帰る』の出来映えは大変なものであった。父役の新井勘七氏、母役の飯島よし、兄役の栗原育夫氏、弟役の石井盛夫、妹役の川口暁子《あきこ》等全員の真にせまった演技で、観客席の中にはハンカチで目を押さえる者もいたようだった。

 その他で、私の印象に残ったものは、小学部低学年の舞台劇『良寛様』の中で、加藤忠男《かとうただお》の袈裟《けさ》を身に付けた良寛の演技や良寛を取り囲む子供達、品川武男《しながわたけお》、吉野千枝子《よしのちえこ》、森田繁子《もりたしげこ》、岩崎正浩《いわさきまさひろ》などの演技がごく自然で見ていて楽しかった。

 また、小学部上学年の朗読劇『婆ちゃんの病気』という劇も素晴らしく、父役の青木、息子役の中村、娘役の佐藤などの演技も感動させられた。特に目立ったのは高三の上郡《かみごおり》くらさんの演じた婆さんの演技が抜群であった。

 高等部の仲間達の放送劇『黄金《こがね》の花』も平松、藤間《ふじま》、池田の先輩三氏と山下の熱心な演技で盛り上がり、学芸会は最後まで快い緊張感と楽しい雰囲気に浸りながら終わることができた。

 すでに四十年も前のことであるが、つい昨日のことのように懐かしく思い出すことができる。

校内音楽会

 昭和二九年(一九五四年)の三月三一日に、西側校庭内に四教室(後に改築して六教室)を有する平屋建新校舎ができるまでは、前述したように校内文化系行事は全て、旧校舎の階下の中で最も広い教室を使用して行なわれていた。校内音楽会も同様、その階下の教室で催された。昭和二六年(一九五一年)の確か第二学期にアップライト式ピアノが一台、購入されたように記憶しているが、それまでの私達の音楽の授業は大型のオルガンを用いて行なわれていたので、ピアノの購入は私達には旧式の音楽授業から新式の音楽授業へ生まれ変わったような感じを与えて嬉しかった。

 また、ピアノの購入は単に音楽の授業のみでなく、音楽会や学芸会の内容を大きく変化させ、盛り上がらせる要因にもなっていった。

 校内音楽会は毎年第二学期の期末試験後に行なわれていたが、その中で私は、昭和二八年(一九五三年)の音楽会が一番記憶に残っている。その最大の理由はこの年の音楽会がコンクール形式だったことと、外国人の客演があったからである。

 その年の音楽会は新校舎ができる前の時期だったので、旧校舎の広い教室にピアノを運び込み、舞台を造り、観客席には長椅子をぎっしり並べて会場にしたのだった。

 音楽会は主としてコンクール形式で行なうと前々から知らされていたので、出場者は放課後、学校の音楽室やその他オルガンが置いてある教室で夕食の時間を告げる鐘が鳴るまで練習に励んでいた。

 その日が近づいてくると何となく落ち着かなくなり、三、四人が一ヵ所に集まったりすると、いっぱしの評論家になった気分で、明らさまに出場者の名を挙げ、その者のおよその順位をあれこれ言ったりして賑やかな茶飲み話の材料にしていた。

 生徒会の主催でもあったので、時々評議委員会が開かれた。会議に参加したクラスの評議委員は、その会議の内容をクラスに戻って報告していたが、その話によるとコンクールは歌の部と演奏の部の二つに分かれ、歌の部には独唱と合唱があり、演奏の部にはハーモニカとオルガン、その他の三部門に分かれていたということだった。

 独唱の部門には更に小学校唱歌や童謡に属するものと、ラジオ歌謡や歌曲、その他叙情歌に属するものとに分かれているとのことであった。

 私のクラスは八人なので、二、三人は出場してほしいという係からの要請があった、とクラスの評議委員が熱心に勧めたので、やむなく岩田と渋谷と私の三人が出場することになり、それぞれ伴奏者を見つけて準備をすることにした。

 「順位はどうでもいいんだよ。参加することに意義があるんだ」

と、渋谷が明るい声でそう言ったので、岩田も私も、

 「そうだ、そうだ。それでいいんだよ」

と言って、それぞれ適当に練習を開始したのであった。私は小松博を伴奏者に選び、オルガンで伴奏してもらうよう頼み込んだ。歌は「第三高等学校寮歌」に決めた。

 小松博と西川勝《まさる》は抜群の音感の持ち主だったらしく、オルガンやハーモニカの演奏には優れた腕前を持っていたから、大勢の独唱者から伴奏を依頼されていた。

 ところが、小松や西川達自身もハーモニカやオルガンの独奏の部門に出場するので、彼らも練習時間がそれなりに欲しかったのではないかと気づいた時、何となく気の毒に思えたのだが、私はわがままを言ってとうとう練習に付き合わせてしまったのである。

 音楽会の当日は、窓ガラスを通して陽光が差し込み、十二月の下旬ではあったが、会場は超満員の状態だったこともあって寒さを覚えなかった。

 コンクールの各部、各部門の順位については記憶していないが、私の耳に印象深く残っているものを挙げてみると次のようなものがあった。

 まず、独唱の部では小学校唱歌や童謡に属する部門に出場した田口喜美子の「ないしょ話」、新井きみの「カラスの赤ちゃん」、寺田正子の「かえるの笛」、吉野千枝子の「こでまりの花」などが記憶に残っているが、特に吉野の「こでまりの花」の伴奏が岩崎先生の静かでやわらかな琴の伴奏だったので、印象が強く残っている。

 独唱の部のラジオ歌謡、歌曲、叙情歌の部門では守谷茂《もりやしげる》が「平城《なら》山」、中村文夫《ふみお》の「ステンカラージン」、加藤忠男の「麦踏みながら」が印象的だった。演奏の部のハーモニカの部門では小松博の「ウイリアムテル」、林利之《としゆき》の「金婚式」、塩野祐作氏の「青空行進曲」が記憶に残っている。特に塩野氏の「青空行進曲」は彼自身の作曲によるもので、「丘を越えて」の曲想に近い明るく心はずむ曲であった。

 オルガンの部門には、青木五郎、西川勝、田中正雄らが出場したが、残念ながら何故か演奏した曲名を覚えていない。その他の部門には綱川八郎《つなかわはちろう》が琴の演奏曲「六段の調べ」を奏でた。

 合唱の部では、中学部の「狩人の合唱」が素晴らしかった。私達高等部の仲間達も「矛をおさめて」を合唱したが、清水教諭から、

 「君達のは合唱ではなくて、あれは怒号だな」

と、言われてしまい、一同苦笑した。

 音楽会の最後に近くなった頃、理療科の金子教諭が特にこの日のために招いた二人の外人女性を紹介した。一人はピアニストで、もう一人はソプラノ歌手だった。一緒に来た通訳の男性が彼女らの演ずる曲名を一つずつ紹介していった。通訳の説明によると、二人ともニューヨークの音楽学校の出身者だということだった。ピアノはベートーベンの「ムーンライトソナタ第一楽章」と、シューベルトの「セレナーデ」の二曲であり、ソプラノの歌はクリスマスが間近かったためか、「聖き街」と「聖夜」の二曲だった。弱視者の説明によると、二人共体格の良い三十歳後半と思われる婦人のようだった。ピアノはさすがにタッチが軽く、巧みで、流麗な感じを受け、歌の方もボリュームの豊かさと落ち着きのある歌い方の感じで素晴らしかった。

 以上、音楽会は狭い会場ではあったが、参加者一同に楽しさと充実感を抱かせながら、終了したのだった。

 昭和二八年(一九五三年)の二月一日、NHKは東京地方でテレビ放送を開始し、同月二十日に新番組『ゼスチャー』が始まった。

 政界では二月二八日、吉田首相が衆議院の予算委員会で右派社会党の西村栄一議員に対し、「バカヤロー」と発言した。それがもとで三月十四日に吉田内閣不信任案が可決され、解散となった。世にこれをバカヤロー解散と言い、後々の語り草となった。

 明るいニュースとしては七月十六日、伊東絹子がアメリカでミス・ユニバースコンテスト第三位に入賞し、それ以後八頭身ブームが女性達の間で広がった。また、翌年はキングレコードの歌手、春日八郎の歌った「お富さん」が爆発的な人気で流行した。

ああ難しい理療科授業

 私が中学部三年に編入した時は点字そのものは三平先生から教えてもらっていたので、それほどの苦労はなかった。しかし、高等科二年を卒業したものの、それは既に数年前のことであり、また、戦時中で、二年間の既存の学業をほとんど修めていないということもあって、私の学力は三平先生が言われていたように中学部一年に入学できる程度のものでしかなかった。だが、中学部の教師達は何故か高等科二年を卒業しているということと、年齢が二十歳になっているということで中学部三年に籍を置くようにと主張し、結果としてはそのようになったのであった。

 私はやむなく心を決めて、中学部三年の授業に挑戦することにし、授業に参加した。ところが、例えば英語については、高等科の時、アルファベットの文字を教えられた程度のものだったので、どうすることもできなかった。担任も私の英語の学力のないことを認め、中学一年の英語の授業に参加できるように配慮してくれた。中一の英語の授業は、金子十三松《かねことみまつ》教諭の担当でなかなか厳しかった。しかし、その頃私は、学んだことのない英語に興味があったので、金子教諭の発音に真面目に耳を傾けていた。ところが、私が中一の英語の授業に参加していると、その時間にあたる中三の数学の授業がまるっきりわからない、という弊害が当然のように起こったので、間もなく中一の英語の時間への参加を止め、中三の数学の授業に参加するようになった。英語は中三の英語を担当していた大原《おおはら》教諭に、放課後毎週二回ほど特別に指導を受けることになったのである。

 どちらかというと、理数科の授業より語学の方が苦手だったので、この大原教諭の特別指導は大いに助かった。それでも私は語学、特に英語は苦手だったので、教科書は自習書を見ながら適当にその場しのぎの学習をしただけのことで、発音もでたらめ、スペルの記憶もいいかげんになってしまい、結局は和文英訳の力の全くつかない学習に終わってしまったのである。

 また、国語もどちらかといえばふるわず、特に古文がだめだった。しかし、古文は、英語文を聞くよりは多少、気持ちが良かったけれども、文才のある栗原氏に時々智恵を借りたが、結局、古文を、きちんと読むことも訳すこともできなかった。

 だが、中学部三年の授業の成績は総合的にはまあまあのところだったので、どうにか高等部の理療科、本科按摩鍼灸科に進学することができた。幸いにもこの年は、入学試験が正式に行なわれなかったので、首尾よくすべり込むことができたのである。

 私が高等部に入学した昭和二七年度から埼玉県立盲学校は、同年の二月十一日に按摩師、鍼師、灸師、柔道整復師、養成施設認定規則(昭和二六年文部厚生省令第二号より)によって、按摩師、鍼師、灸師、養成学校として文部省より認定され、高等部本科三年、専攻科二年、高等部別科二年即ち、按摩鍼灸科五年課程と、按摩科二年の課程の二つのコースが高等部に設置されたのである。

 ところが、高等部の理療科本科按摩鍼灸科に進んでみると、安喰敏起氏や池田米子《よねこ》さんが言っていたように、各学科、特に専門学科の難解な用語を理解するのに骨が折れた。医学知識の基礎である解剖学の用語はそれに慣れ理解するまでに時間がかかった。特に困ったことは、教科担当の清水教諭の授業で使用している解剖学の分厚い活字書と、私達生徒が取り寄せていた解剖学の点字書がその規模《きぼ》において格段の相違があり、弱視で学問的に熱心な清水教諭はかなり難しい講義をしていた。私達は解剖学の点字書を持ちながらそれをほとんど使用せず、講義を必死になってノートしていたのだった。

 清水教諭の授業はこのように厳しかったが、真面目に進めていかれたのでまだ良かった。日大の医学部からまわされてくる若い医師達の授業は、内容としては不満はなかったが、一年間の授業の総数の三分の一程度しか講義が行なわれなかったので、その医師の担当する予定の循環器と感覚器に関する解剖学の知識は、全く教室で耳にすることはなかったのである。このことは、後に教育大の特設教員養成部の受験勉強をしている時、解剖学に特に自信が持てない理由の一つになってしまった。

 その他、衛生学や医学史の授業もなかなか難しく、すぐには親しめない授業だったが、私にとって一番苦労したのは、理療科の按摩、マッサージ、鍼、灸の実技の授業だった。一言で言えば、実技の授業時間は誠に哀れで悲しい恐ろしい時間だった。もともとあまり器用ではないと思っていたので、実際にそれらの実技時間で授業を受けてみると、私は我が身がこれほど不器用でぎこちない手先の持主だということを知り、愕然としたのであった。そして、しみじみ自分の愚かさ、ふがいなさを知らされ、涙することもあった。特に、鍼実技と灸実技の時間は恐ろしい時間で、自他共にそれが明らかにされる泣きたいような授業だった。その中でも鍼実技の時間は、二年先輩の新井宗作、新井勘七、藤間善造の三氏のクラスと一緒に一時間を共にする時があり、先輩達に一層迷惑をかけることになり、私はこの授業になると自然に体が硬く緊張し、不器用さが強く表われ、惨めな思いに陥っていく自分を知らされたのであった。

 とにかく、恐怖の授業であった。ところが、担当の白石《しらいし》教頭は二年生の二学期に入ると私達に向かって、

 「もし、鍼を、人の体に管を用いても用いなくても良いから、寸三《すんさん》の二番《にばん》で一分間に六本刺入《しにゅう》できたら、褒美として寸六《すんろく》の鍼管を一本あげるから、みんな頑張りなさい」

と、言ったのだった。それは、二学期の授業が始まって間もないころのことだったので、私を除く他の七人の仲間達には大いに意欲を高めさせる刺激的な言葉だった。従って、鍼の速《はや》うちの練習が授業時間の中で始まり、十五秒ごとに、チン、という音が出る検脈時計を用いて競争するようになった。

 驚いたことに早うちの練習を開始してから間もなく、白石教頭からご褒美の鍼管をもらう者が続出し、二学期の授業が終了する頃までに、岩田、大滝、内藤、宗像、渋谷、山下の六名が見事にその難関を突破したのであった。残った二人のうち、茂木幹央は五本まで刺入でき、六本刺入するまでには至らなかったが、それは二本程度しか刺入できない私から見れば、はるかに優れた技量と言えるものだと羨しく思った。

 白石教頭は、はっきりものを言う人柄であったから、鍼実技の成績も一同の前でいささかのちゅうちょもなく明瞭に、

 「鍼実技の成績は、岩田は五、大滝は四、大嶋は二、渋谷は四、内藤は四、宗像は四、茂木は三、山下が四。以上のようにつけたからいいね」

と、ズバリ言って退けたのだった。

 即ち、それは一分間に人の体に寸三二番の鍼を六本刺入できれば四であり、わずかに及ばなかった茂木が三で、はるかに及ばなかった私が二で、速うちには絶妙な技量を持った岩田が五であるという評価であった。

 確かに岩田はその当時象の皮膚、とか鉄板のような皮膚、と言われていた白石教頭の極めて硬い肩上部《けんじょうぶ》に、寸六の二番を十五秒以内の速度で刺入できるという技量を持っていた。それに生まれつき手先が器用なのか、岩田の刺入する鍼は少しも痛みを感じない心地良いものであった。だから、くやしさと羨しさでいっぱいだったが、やはり、実力のないことにはどうすることもできなかったので、当時の私としては唯々鍼を速く痛くなく刺入できるように工夫し、かつ努力する他はなかった。

 八人の生徒達が四人ずつ二組に分かれて鍼の早うちのリレー競技をすると、私の加わったチームの方が必ず敗北したので、その競技がある度ごとに、私はふがいなさを味わわされるのであった。

 夏期休暇のような長期休暇の時にはいつも鍼をしこたま購入し、毎日自分の足に、時には母の腰や足を借りて刺入の練習をし、努力を重ねたが、鍼の技術は一向に上達しなかった。母は私の鍼の技術の上達を願って、自分も両眼を閉じ、自分の足に鍼を打ってはげましてくれた。

 そんなある日、私はまだ一度も授業を受け持ってもらったことのない恩田《おんだ》教諭に、思い余って厚かましくも鍼の実技に関する悩みをうちあけ、どうしたら鍼が速く痛くなく上手に刺入できるか、という、私にとってはこの上もない難関についての指導を請うたのだった。私の訴える悩みの数々をじっと黙って聞いていた思田教諭は、

 「私も決して器用な方ではないし、鍼の刺入も決して速くはない。でも、鍼は遅くても患者の病気を治すことはできるよ。そこが鍼の治療の面白いところだから、焦らず、諦めず、君のぺースで鍼の練習をしていればいいよ。そうすれば、いつかは必ず君がうつ鍼によって患者の体が反応し、病気の治療ができるようになるから、心配せずにその日の来るのを努力しながら待つんだね」

と、静かな口調で優しく悟すように話してくれたのである。しかし、恩田教諭の話を聞いた時は一応不安な心は静められたが、見方によっては何か慰められたような気がして、その後一時期、たまらなく哀れさに似た感情を覚えたのであった。今になって考えてみると、その時の恩田教諭の言葉は、長い年月の体験から得られた事実に即した話であったが、その当時の私にはすぐには素直に信じられない話のように思えたのであった。

クラス雑誌『明星』の制作

 私が初めて茂木幹央に会ったのは、昭和二七年(一九五二年)の四月で、私が埼玉県立盲学校の高等部理療科本科按摩鍼灸科に進学した年の春であった。最初の出会いの時、茂木はきちんと正座して私に向かって両手をつき、深々と頭を下げながら真面目な口調で、

 「今度、熊谷盲から本校に転校して来ました茂木幹央と申します。どうぞよろしくお願いします」

と、挨拶をしてくれた。そんな真面目な固苦しい仕方で挨拶をされたことのなかった私は、大いに恐縮し慌《あわ》ててその場に正座し、茂木と同じように両手を畳について、深々と頭を下げて挨拶したことを覚えている。これは後日その様子を側で見ていた友人から聞いたことであったが、その時、私と茂木との距離はほんのわずかしか離れていなかったので、頭と頭がまさにゴツンとばかりぶつかり合うのではないかと心配したそうである。

 この年の二月十一日に前述したように、埼玉県立盲学校は、按摩師、鍼師、灸師、柔道整復師養成施設認定規則(昭和二六年文部厚生省令第二号)によって、按摩師、鍼師、灸師養成学校として文部省より認定され、高等部にこれまで設けられていた本科三年の課程の他、別科二年、専攻科二年の課程をも設けることができるようになったのである。待ちに待った埼玉盲の最初の専攻科の課程には、栗原育夫氏、平松富次氏、塩野祐作氏、上郡くらさんの四人が進学したのであった。

 茂木幹央が転校して来て、私のクラスはその年から八人になったが、茂木がクラスに加わったことでクラスの中は一変し、非常に明るいはつらつとした、いかにも高校生のクラスといった息吹を感じさせ、教師達や先輩達からは粒揃いのクラスと言われる雰囲気をかもしだしていた。だから、いつも元気な明るい声がクラスの中に響いていたので、授業に見える先生方も心なしか皆張り切って嬉しそうであった。担任の清水教諭も国語の横山教諭も私達のクラスへ来ると一段と声の調子を張りあげて授業を進めているようだつた。専門教科である理療科を学ぶということで、高等部の主任をしていた荻窪教諭が、理科、社会、英語の三教科を受け持って、はぎれのよい口調でびしびしと講義をし、優秀な理療人の基礎作りをするのだと言って張り切っていた。

 荻窪教諭の講義は、その学科の教科書に入る前に必ずその学科を学ぶ意義や、必要性あるいは心構えといったものから入っていくという特徴を見せていた。荻窪教諭の専門は理科で、特に生物学だったが、化学も物理学も数学も強かったから、講義はいつも多面的な内容を含んでいた。

 その年の四月九日に日航機の「もく星号」が大島の三原山に激突し、搭乗者三七人全員が死亡したことを十日のニュースで聞いて驚かされた。

 クラス雑誌『明星』を制作しようということをクラスの中で話し合うようになったのは、茂木がクラスに加わってから半年程経った頃だったと思う。校内の作文大会で、「僕はこう考えた」とかいう題名で、随筆ふうの作文を書いて発表した茂木の文を聞いていた理科の荻窪教諭が、授業の終わり際に、

 「茂木、お前はなかなか面白いものを書くなあ。もう少し整理すれば、あれほど長く書かなくとも、もっと良いものになるなあ」

と、めずらしく静かな落ち着いた声でそう褒めてくれた。

 その時の茂木の作文は、以前茂木が学んでいた盲学校の概要や教師の姿勢、生徒達の考え方などを書き、それに痛烈な批判を加え、また、盲学校の生徒達と一般高校生との相違、現代社会に生きるに必要な盲学校生徒達のこれから考えてゆくべき課題などについて、理想論めいたものを含めて書いたものであった。

 荻窪教諭の意見があったわけではなかったが、茂木は時々、

 「僕達は盲人だといっても、まだ学生だし、若いんだから、自分の思っていることくらいどんどん書いてみることが必要だ。それにはこの八人が気を揃え、力を合わせてクラス雑誌を作って、誰にも遠慮せずに考えていることや思っていることを書けばいい。国語の横山先生のご指導を受け、一冊まとめたら合評会を開き、お互いどんどん批判し合い、刺激し合っていけばクラスの力がついてくる。だからみんな、お互い協力していこうじゃないか」と、クラス雑誌の制作を主張していた。

 それから二回ほどクラスの中で討論が繰り返され、国語の時間に横山教諭の了解を得て、クラス雑誌を作ることに決めたのである。週三時間ある国語の授業時間のうちの一時間を、雑誌を作るための作業や、できた雑誌の合評会などをする時間にあて、また文学鑑賞を行なうこともあった。

 最初のうちは、クラス雑誌の内容が外部に知られるのは困るという意見もあったが、回を重ねるごとにそうした不服や不満もなくなり、最後にはその時間を楽しむようになった。

 ところが、その一時間は、一つの教室を大きな衝立で二分した一つを使用していたので、隣の教室で授業をしていた小学部四年の生徒や、指導している先生には多大なる迷惑をかけていたのではないかと思っている。

 クラス雑誌『明星』は、大体一学期に一冊の割合で作られていた。その内容を見ると、社会的な課題めいた論文調のものを茂木が書き、宗像が宗教的な倫理観の匂いの濃い、やはり論文調の文をよく書いていた。私と内藤は随筆風のものが多く、渋谷は田園生活を素材にした物語やシナリオ風の作品を書いていた。山下は、日常生活の中から彼の感じたことを記し、岩田や大滝は、詩や短歌や俳句、時には短文も書いていた。

 そんな風な内容でクラス雑誌は作られていったが、そうした著者の特徴が三、四冊め頃からあらわれてきて、それなりの形の整った雑誌となっていった。時折、横山教諭や福田教諭に原稿を依頼し掲載してもらっていた。タイトルは残念ながら思い出せないが、白石教頭が「枯葉」というペンネームで毎回原稿を寄せてくれた、国立東京盲学校の旧制師範部に籍を置く原沢拓三《はらさわたくぞう》という学生の登場する連続恋愛小説は、クラスの者には楽しみな読物だった。横山教諭の芭蕉に関する随筆風の短文、福田教諭の連続小説『秋風吹けば』や『永遠の若人』というエッセイなどは、なかなか格調高い文章であった。

 そうしたクラス雑誌を制作するという、ある責任のようなものを一人一人が持たされていたので、そのためか宿題のレポートを書く時も以前よりは容易に取り組むことができ、比較的内容のあるレポートを書いて出すようになった。教師達の間での私達のクラスの評価は、ますます高くなってきたようであった。

 また、作文大会や弁論大会には制作した雑誌の内容を生かして、茂木幹央や宗像怜子、内藤泰子などが参加していた。俳句や短歌の発表会には岩田次郎や大滝順治《おおたきみちはる》などの作品が入選したり、文化祭や校内放送では渋谷三亀夫の書いた田園劇が発表されていた。

 この雑誌の編集長のような仕事をしていた茂木幹央が、本科三年の二学期頃から、大学への進学のことで多忙を極めたのと、按摩師の検定試験の受験勉強にクラスの仲間が主力を注ぐようになったので、雑誌の制作はできなくなり、結局六冊ほどの発行で、以後、専攻科生になってからも残念ながら雑誌の再発行はなかった。

 雑誌の再発行はできなかったが、その影響はクラスの仲間の中に深く浸透していたようであった。その後、渋谷や岩田や私が、新設された文芸クラブに参加して楽しく活動することができたのも、そのような雑誌制作の経験があったからであると確信している。

科学を好むが故のハプニング

 そのハプニングが起こったのは、昭和二八年(一九五三年)の五月の中頃のことで、私が高等部二年の初夏を迎えた頃だった。荻窪教諭は、理科の時間に化学の講義の中で、

 「化学という勉強は唯こうして私が君達に講義をしているだけでは面白くないだろうし、真の意味での実感を味わうことはできないと思う。少しでも実験ができれば、化学変化の状態をつぶさに観察できるのだが、この学校にはなかなかそうした材料がなくて残念だ」

 「もし、カーバイドでも手に入れることができれば、アセチレンガスを発生させる実験ができるんだがなあ」

と、いかにも残念そうに言われたので、私はすぐに、

 「じゃあ僕が郷里へ帰って、カーバイドを購入してきますよ」

と、いとも簡単にそう言ってしまった。そして、その週の土曜日に帰省し、カーバイドを購入してきたのである。カーバイドは、一見石のような外形をしているもので、その分子式はCaC2であった。荻窪教諭は、私がカーバイドを購入してきたことを大いに喜び、実験のできる一七号教室で、化学の授業にアセチレンガスを発生する実験を行なった。

 その時の実験の記憶をたどってみると、まず、カーバイドを小さく砕き、それを試験管内に入れ、それに水を注ぐのだ。試験管内に水を注ぐとジューッ、という小さな音がして、試験管内で化学変化が起こっていることが感じられた。続いてガスの発生を確認する方法として、試験管の入口にマッチの火を近づけた。

 「今、試験管からガスが出ているが、透明なのでちょっと見えない。しかし、これにマッチの火を近づけると燃えて強烈な刺激臭を発するから注意しなさい」

すると、ボッという小さな音がして、ものすごく刺激性の強い臭気を有する気体が部屋中に広がっていった。これほど凄まじい臭気を発するとは思わなかった。仲間達はたまらなくなってすぐに教室の窓を開け放してしまった。しかし、一同はそれでも実験をしたという喜びに開け放した窓の外まで聞こえるような声で、

 「実験成功、実験成功」

と、手を叩きながら叫んだものであった。

 カーバイドに水を作用させ、アセチレンガスを発生させる実験に成功した喜びを私達は隠しきれず、寄宿舎に帰って後輩達に得意満面、幾分の誇張を交えた興奮した口調で、

 「実験というのは実に面白い。あんな石のようなカーバイドに水を作用させると、実際に先生が講義されたようにアセチレンガスが発生してくるんだから、それは事実であっても、初めてそれを知った僕達には不思議だなあ、という印象を強く感じたね」

と、語って聞かしたのだったが、そのことが後に記すハプニングを生み出す要因になるとは、その時の私は想像だにしていなかった。

 「大嶋さん、僕にそのカーバイドというやつを触らせてくれないか」

と、後輩の一人が言ってきたので、私は別になんのちゅうちょもなく、

 「ああいいよ。貸してあげるから十分よく触ってみなさいよ」

と言ってカーバイドを入れた袋ごとその後輩に手渡した。袋を手渡す時、

 「カーバイドに水を作用させるとアセチレンガスが発生し、マッチの火を近づけると燃えて刺激臭を発するから気をつけろよ」

と、つい余計なことまで付け加えてしまったのである。

 ところが、何ということか、不覚にも私は後輩にカーバイドを入れた袋を手渡したことも、注意事項を話したこともすっかり忘れてしまっていた。ハプニングが起こったのはその翌日の放課後のことであった。

 私は関東地区の盲学校野球大会へ予備選手としてではあったが、参加することができるようになっていたので、内心嬉しく、連日の練習に汗を流していた。その日の放課後は、盲学校の教職員チームとの練習試合をしていた。素晴らしい五月晴れの上天気だった。初夏を思わせる暑い陽光がグランドいっぱいに照り輝いていた。めずらしく、ショートストップを守るように監督の石岡教諭に言われたので、張り切って守備についていた。張り切っていたせいか、ころがってきた打球をめずらしく良く捕球できた。ハプニングが告げられたのは、何回目かの教職員チームの攻撃の真最中の時だった。突然、

 「誰か来て下さい。火事になりそうだから早く来て下さい」

という甲高い急を告げる叫び声が背後の寄宿舎の方から聞こえてきた。私には見えなかったが、部屋の窓を開けて寮母が、練習試合をしている私達に向かって真っ青な顔で叫んでいる、と側にいた弱視の友人から口早に知らされた。練習試合はすぐに中断され、数名の男子教職員が寄宿舎の方へ走って行った。それから何分も経たずに騒ぎは治まったらしく、また練習試合が続けられた。

 練習試合が終わった後、私は荻窪教諭に人気《ひとけ》のない教室に呼ばれ、事の真相を聞かされたのである。その話の中で荻窪教諭は静かな声で、

 「実は君がカーバイドの袋を渡した後輩が、寄宿舎の洗面所で洗面器の中へ水をいっぱい満たし、そこへカーバイドを砕かずに大きなままで入れて、発生してきたアセチレンガスに火を付けたんだよ。アセチレンガスの量が多かったので、火柱が天井に向かって上がったのだ。で、彼は驚いて寮母を呼んだということなんだ。まかりまちがえば寄宿舎が火事になるところだったのだが、洗面所の天井が黒く焦げた程度で済んでよかった」

私はびっくりしたが、ただ頭を下げる他はなかった。

 「彼は涙ぐんで何度も謝っていたが、彼だってふざけ半分にあんなことをした訳ではない。理科や数学に前々から深く興味と好奇心を持っている彼ならば、一度は自分の手で化学実験をしてみたかったんだろうな。理科教育の中で盲学校なるが故に危険を恐れて、化学実験を行なわなかったこれまでの教師の方にも、責任がないとは言えないね」

 「それにしても、カーバイドの大きな固まりを、水をいっぱいに満たした洗面器の中に入れて、発生したアセチレンガスに火を付けたのには驚いたなあ。ほんのわずか光覚を感ずる程度の視力の彼の目にも、真っ赤な火柱が見えて恐ろしかっただろうな」

そしてさらに荻窪教諭は、

 「今回の事件を私達、特に理科の実験について教える教師達は、反省材料として学び、これからの授業の中に参考にしていかなければならないな。まあ、後輩の彼には君から優しく注意してやってくれ。ただ、注意はいいが決して大声で叱るなよ。それから校長が大分気にしているからすぐに行って謝って来い。校長からは厳しいお叱りがあるかも知れないが、我慢しろよ」

と、諭してくれた。

 校長室では甲高い校長の声で厳しい叱責を受けた。が、何を言われたか殆んど記憶していない。何週間かの停学処分をくらうのではないかと覚悟して出向いたのだったが、そうした処分がなかったのは幸運であった。ただ、ハプニングの原因となったカーバイドを入れた袋は没収され、どこかへ葬られてしまったようで、再び私の手には戻ってこなかった。後輩のところへ行くと、彼は、

 「大嶋さん、すいませんでした」

と、何度も謝まっていた。

 後輩の彼にはそのハプニングが余程心にこたえたのであろう。それを契機に、なお一層勉学に励むようになり、理数系の知識を深めていったのである。そして、その年の秋に行なわれた校内弁論大会には壇上に立って、盲学校における理科教育に対する一生徒としての希望と、理科教育のための教材教具、施設、設備の充実を願望し、生徒達にも実験を楽しめるような授業をしてほしい、盲人にも科学の目を育ててほしいこと等を、一文にまとめて論じたのだった。後輩の彼があの失敗から卑屈にならず、自己の成長に常に努力を重ねていた、ありし日の姿を思い浮かべ、その当時のことが懐かしく思われてならない。

舞台劇『屋上の狂人』

 昭和二六年度の三学期に行なわれた学芸会で、演劇クラブに属していた私は、『小さな願い』という埼玉盲学校では最初の放送劇に参加した。そして、高等部に進んでからも演劇クラブに入部した。

 そしてその年の晩秋、十一月三十日に行なわれた関東地区盲学校演劇コンクールに参加した。発表は東京教育大学付属盲学校の講堂の舞台だった。その年の七月から八月にかけて、前にも記したがフィンランドのへルシンキで第十五回オリンピック大会が聞かれ、日本選手は戦後初めて参加した。そんな華やかな行事の反面、朝日新聞社は八月六日の広島原爆投下記念日に朝日グラフで原爆被害写真、を初めて公開した。五二万部を発行して原爆の恐ろしさを写真によって日本中に知らしめたのである。一方、同じ年の十一月の十日には皇太子明仁の立太子の礼がとり行なわれた。

 演劇クラブの指導監督は、前年同様、福沢教諭と二六年の二学期の末に盲学校に赴任してきた石岡教諭の他にもう一人、二七年度の一学期に赴任してきた菅間《すがま》教諭の三人だった。舞台劇『屋上の狂人』という菊池寛の傑作を選んだのは、クラブ部長の新井勘七氏だった。私達がそのことを指導にあたっている福沢教諭に話すと、福沢教諭は脚本を読みながら私達の話を黙って聞いていたが、話が終わると脚本から目をはなし、

 「この劇は一幕の劇だがなかなか難しいね。まず第一に四国弁が台詞の中に多く使われているから、これを劇中で使いこなすのがひと苦労だな。それから第二は、狂人が登っている高い屋根の家をどうして造ったらよいか。第三として、舞台上で狂人を火あぶりにさせるための火をどうして燃やしたらよいか、ということだね。これだけ考えても相当の工夫を要することで、それなりの覚悟をして取り組まなければならないね」

と、静かな口調で考え深そうに言ったのである。確かにそうだと、その時私は素直にそう思った。何故かというに、福沢教諭の指摘した三点を軽視したら、この舞台劇は全く意味のない、何の感動も呼ばない、つまらない劇になると思ったからであった。

 クラブ員は車座になって、この福沢教諭の指摘した問題点についてしばらく考えてみた。誰一人ものを言う者はなく、唯唸《うな》ってっているだけであったが結局は、福沢、菅間、石岡の三教諭が次の練習日までに対策を思案することになり、そこでは四国弁の台詞《せりふ》の指導監督を、菅間教諭が専門に引き受けることだけが決められた。役を与えられた者は、その日からすぐにその台詞をそれぞれノートし、練習を開始した。

 その日に決められた配役を挙げると、狂人は栗原育夫氏、その父親を新井勘七氏、母親を志田幸子、狂人の弟を大嶋康夫、下男は加藤忠男、隣の農家の主人を青木五郎、女祈祷師は池田米子さん、そしてナレーターを川口暁子《あきこ》というメンバーだった。ナレーターの役は脚本の中にはなかったのだが、場内の観客を舞台に引きつけるために、栗原育夫氏が一筆ふるって配役とこの劇の概要を、興味をそそるような文体で書き、それをナレーターに語らせるという方法を考えたのである。この方法は実に大きな役割をもたらしたのであった。三人の指導教諭もこの栗原氏の発案を認め、クラブ員に話し了解を得て、そのナレーターの役を川口暁子に決め、台詞の読み合わせの練習の中に加えた。

 台詞の練習はなかなか難しく、特に四国弁は難渋を極め、容易に身につかなかった。方言指導の菅間教諭は京都にあった日本武術専門学校に学び、京都の町中《まちなか》に下宿していたので、関西地方や中国、四国地方の人々とも交流があったらしく、方言にもかなり精通しているようであった。だから、アクセントの微妙なところもなかなか堂に入っていて、私達を感心させた。台詞の練習に力が入ってきた時、福沢教諭が、

 「ちょっと君達には残念な報告をしなければならなくなったよ」

と、幾分暗い力のない声で、車座になったクラブ員に向かってそう言葉をかけてきた。福沢教諭の話によると、米山校長が、

 「そんな高い屋根をつける小屋などを造り、その上に生徒を乗せるなんてことは了解できないね。まかり間違って、もしその屋根から生徒がころがり落ちて怪我でもしたら誰が責任をとるんだ。しかし、どうしてもその劇をその小屋を造ってやりたいのなら、指導者三人が共同で責任をとる覚悟で行なうんだな」

と言って、結局は、舞台に高い屋根のある小屋を造って置くことは、許可をしなかったのである。そこで一同はこの決定的な弱点となる校長の意見を、不承不承ながら受け入れ、他の方法をしばらく考えてみることにした。脚本を変えて新たに練習を開始し、台詞のやりとりを盛り上げるようにするには残念ながら日数が足りなかった。そこで、いろいろ思案した結果、やむなく舞台の背景を遠近法を用いて表現し、水彩で屋上の瓦屋根を描いた。その屋根の一部分を上手に利用し、描いた瓦の陰から狂人に顔を出させ、いかにも狂人が屋根の上に登っているように見せようという苦肉の策をとったのである。

 狂人の登る屋根、即ち屋上の問題はこれで一応片を付けたが、もう一つ舞台の上で松葉を燃やすということが重要課題として残っていた。この点についても米山校長からクレームがついて悩まされたが、これは三人の教諭達がいざという時には指導者としての責任を持つということで、一応の許可を得られた。しかし許可を得たものの、付属盲学校の講堂にある舞台の上で、果たして松葉を燃やさせてくれるだろうか、またそんなちっぽけな松葉を燃やした焚火ぐらいでは、とても火あぶりのシーンが観客に受け止めてもらえないのではなかろうか、という意見などが出て、またまた一同は考え込んでしまった。

 実際に、コンクール当日から一週間ほど前に、大きな金属性の盆の上に松葉をのせてそれに火を付け、火あぶりのシーンを演じてみたが、ほとんど炎も煙も立たず、練習の成果を公開するその席に参加した教職員や生徒達は、何の危機感も恐怖感も、劇そのものへの感動も与えなかったようだった。結局は盆にのせた松葉を燃やした位ではだめだということが分かり、再び三度思案を強いられることになった。

 私が秩父市にある花火工場で作っている煙花火のことを思い出したのは、そんな時であった。煙花火は点火すると、三分近く猛烈な勢いで煙を噴出し、周囲に煙幕を張る。その中で狂人が暴れ狂えばきっと様になると思ったからであった。

 「舞台に松葉を積み上げ、煙花火に火を付け煙を立たせ、その中で狂人を暴れさせれば、どうにか様になるのではないでしょうか」

と言って、煙花火を使用することを提案し、取り敢えず電話で五本の煙花火を購入してもらうよう父に頼みこんだ。三日ほどで父から送られてきた五本の煙花火のうち、一本を使用してみると、思った通りその可能性が確かめられたので、福沢教諭は、

 「まあ、当面はこの方法でやるしかないからこれで頑張ってみよう」

と、残りの四本の煙花火を預かってくれた。

 この劇についてその概要を少し記すと、四国のある地方の豪農に生まれた精神病の息子を、深く愛し且つ悩んでいる両親と、その弟とが醸し出す親子愛、兄弟愛を劇化したもので、その当時の精神病者に対する一般民衆の見方、考え方の一面が如実に表わされた菊池寛の傑作の一つである。

 十一月三十日の当日は底冷えのする寒い日だったが、会場である付属盲学校の講堂はぎっしりと満席の盛況だったので、熱気が満ち満ちて蒸し暑い位だった。

 参加した盲学校は、東京教育大付属盲学校、千葉県立盲学校、都立文京盲学校、横浜市立盲学校、神奈川県立平塚盲学校、群馬県立盲学校、それに埼玉県立盲学校の七校であった。午前十時に主催校の付属盲の生徒会長の開会の挨拶があり、続いて付属盲校長の挨拶。そしてNHKから来られた審査委員長の挨拶と、審査基準や注意事項に関する話があった。最初は付属盲の放送劇『黄金の花』、続いて平塚盲のシェークスピアの『ハムレット』であった。千葉盲の菊池寛の『真似』、横浜市盲の『山鳩の里』、埼玉盲の『屋上の狂人』、群馬盲の『夕鶴』、そして最後に都立文京盲の『上り列車の灯火』の順で発表された。劇作家の名前のないのは私の記憶が定かではないので題名のみを記したのだが、どの劇も皆それなりの出来映えを見せ、観客の耳と目を舞台に集中させていた。

 東京教育大付属盲の『黄金の花』はNHKの放送劇と聞き誤まる程の素晴らしい出来映えで、これが盲学校の生徒達の成し得たものかと疑いたくなるようなものであった。神奈川県立平塚盲の『ハムレット』を観た時には、よくもこんな大作に取り組んだものだと驚嘆した。千葉盲の『真似』という多少ユーモラスな劇を、巧みにこなしていった出演者の器用さには感心させられた。また、横浜市立盲の生徒達が自分達で制作した舞台劇『山鳩の里』の勢力的且つ意欲的な、そして大胆な表現にも驚かされた。

 最初の三校の発表が終了したところで昼食となった。空腹であったにもかかわらず、緊張のためか小心な私は食欲がわかず、落ち着かなかった。

 そして、いよいよ我が埼玉盲の出演の時が来た。埼玉盲の舞台劇は司会者の学校紹介の後、間もなく福田蘭童の短調な憂いを漂わせる尺八の曲をバックミュージックにして、川口暁子の、配役の紹介とこの劇の概要とを簡単に記したプロローグが場内に流れ始めた。バックミュージックにうまく乗った川口暁子の絶妙な語り口と、きれいな声が場内に流れると、場内はシーンと静まりかえって、観客はそのナレーションに引き込まれていったように見えた。私はそう感じた時、内心「しめた」と思い、「よし」と自分自身に気合いを入れたのだった。劇は思うように進行していった。ところが、途中で父親役の新井勘七氏が台詞を間違え、アドリブ的な台詞と器用な所作でうまく切り抜けたが、相手になっていた下男役の加藤が一瞬混乱したため、台詞のやりとりに異変を起こした場面があった。しかし、それは外見的にはほとんどわからないようであったが・・・。

 松葉を燃やして狂人を火あぶりにするシーンに至った時、煙花火が首尾良く凄まじい勢いで煙を噴出させたため、場内はもうもうと煙幕が立ちこめ、その中でむせび喘ぎながら暴れ回る狂人の声や物音が、真に迫って聞こえていた。また、それはそのシーンが、美しい長い黒髪の女祈祷師の狂乱めいた呪文と乱舞の後、転倒し再び起き上がって叫ぶという派手な所作の後だっただけに、観ている者にもかなりの迫力を感じさせたようだった。観客の中には突然の煙幕にむせたのか咳をしている者もいたが、完全に舞台に集中しているように見えた。私、即ち狂人の弟が舞台に登場したのは、そんな最高の盛り上がった場面だった。私は一所懸命台詞と所作を間違えぬように努めた。狂人の苦しみながらわめいている側で、呪文を唱えている女祈祷師をいきなりつかまえ、夢中で突き転がしたシーンが、見た目には兄弟愛の様子がにじみ出ていてよかったということだった。

 劇が終了した時、「まあまあやった」というある種の満足感と安堵感で観客席に戻り、一息つくことが出来た。その後に発表された群馬盲の達者な演技力の『夕鶴』と、適宜な舞台装置をうまく利用し、且つ問題点をきちんと把握し、それをうまく表現した現代劇『上り列車の灯火』を観せられた時は、正直言って「完全にやられた。うちの演劇クラブの実力はまだまだ下だな」と思ったのである。

 発表がすべて終了した後、審査委員長の講評と順位の発表があった。その中でも文京盲と群馬盲、千葉盲、東京教育大付属盲など上位四校までは、一応お褒めの言葉を加えたいろいろな講評があり、我が埼玉盲はやはりバックの造り方に工夫がなかったことが指摘された。私はその時、校長がもしあの高屋根の小屋を造ってそれを使用することを許可してくれていたら、あるいは上位に食い込めたかも知れないとふと思い、くやし涙がこぼれそうになった。しかし、父親役の新井勘七氏が、個人的に優秀な演技者として褒められたのでホッとし、嬉しい気持ちを取り戻すことができたのである。

 思うに舞台劇というのは、一つ一つの台詞の言葉のやりとりよりも、全体の流れ、所作の巧みさ、大胆さ、舞台装置が的確に備えられていることが大切なのだということを、この時しみじみと知らされたのだった。ちなみに埼玉盲の順位は第五位であった。

点字記念日に起きたさざ波

 明治二三年(一八九〇年)十一月一日は、国立東京盲学校の国語の教官である石川蔵次《くらじ》が、日本式点字を発案した日である。埼玉県立盲学校では、毎年その日を記念して、その当時、点字に関する行事を行なっていた。

 その日は、午前中は点字に関する講話と点字競争として速書《そくしゃ》(はやがき)、触写《しょくしゃ》(又は転写ともいう)、聴写《ちょうしゃ》(ききがき)などの競技を行ない、一位から三位までをそれぞれ表彰し、わずかな賞品を与えたりした。そして午後は、点字に関する作文や俳句、及び短歌の発表が行なわれた。作文は本人が直接会場に設けられた壇上に上がって朗読していた。俳句と短歌は、校舎の二階の中央階段を上ったつきあたりの壁際に投句箱が置かれていて、それぞれ無記名で投句することになっている。それらの全部が発表された時、それが入選しなくとも、誰の作によるものか全くわからないことになっていた。無記名なので、中にはふざけた狂句や狂歌めいたものがあって、思わず会場は爆笑の渦に巻き込まれた。そうした狂句、狂歌の中で記憶に残っているものを挙げてみると、短歌では、「寝る時は腹の上にし点字図書朝はおしりの下にぞあれり」「めの字書きいくら書いてもものならず目つぶししてはお先真暗」などという意味のわからぬようなものがあった。俳句では、「点字書き増えて苦しいまめばかり」「さすっても読めぬ点字に馬鹿にされ」「点字競争あの娘一等僕はビリ」と言った全くお話しにならないふざけたものもあった。

 そんな中で俳句の一位から三位、短歌の一位から三位、作文の一位から三位に入賞したものは、さすがに素晴らしい出来映えで、審査委員長の菅間教諭から発表された時、「なるほどそうか」といちいち感心させられたものであった。

 確かに、昭和二七年度の点字記念日の午後に発表された作文、俳句、短歌の入賞作品は思い出深かった。特にその年、点字に関する短歌の部門で第一位に入賞した、

  欺きし人の心を許しつつ点字の図書をひたすらに読む

という歌は余りの出来映えに感動したのか、場内がシーンと静まりかえってしまった。短歌を詠んだ高等部に属する一女生徒が名乗りをあげた時、場内には一瞬称賛のざわめきが起こった。

 素晴らしい短歌を詠んだということで、その女生徒は一躍文学少女として有名になり、頼まれて随筆なども書くようになった。

 ところが半年ほどたった頃、あの作品は『青い鳥』という点字雑誌に載っていたものを盗作したものだ、と友人の一人が言ってきた。私は、その友人の話を最初は正直信じられなかった。しかし、点字雑誌にその歌が載っているのを見せられてみると、それを信じない訳にはいかなかった。その歌を詠んだ人物の名は不覚にも思い出すことはできないが、確かに載せられていたのだった。友人は、

 「僕は彼女を決して嫌っている訳ではないから、時々点字の仕事を頼んだりしている。むしろ、好感を持っている位なんだ。しかし、人の作品を盗作して、自分のものとして平気な顔で書いて出すという誤まったことは許せない。また、そうした盗作を彼女の作品だと思って、ろくに選考吟味もせず、第一位に入賞させるうちの学校の教職員達の、文学的レベルの低さもあきれたものだ。教職員達にはこのことについて責任をとってもらおうと思う。そこで僕はこれから抗議文を書いて出そうと思うんだがどうかな」

と言って私に賛同を求めた。私も驚かされたばかりでもあったので、友人の意見に特に反対はしなかった。

 友人は私にそう話した後、早速抗議文を書いて表に盲学校の住所と職員御一同様という文字を、寮母に書いてもらった封筒に入れてポストに投函したようだった。後でわかったことだが、抗議文は無記名で書かれたようで、職員室での会議の席で、

 「誰がこんな抗議文を書いたんだ」

と何人かの教職員が叫んだが、流れてきた話によると荻窪教諭が友人の名前をあげ、

 「こういう文を書いたのは恐らく彼だろう」

と、言ったようであった。話によると、その抗議文の中には「僕と彼女とは一袋のかりん糖を共にわかちて食う仲であり、僕の仕事を時折手伝ってくれるかけがえのない友人関係なんだ。だから僕は彼女を嫌ってはいない。しかし、人の詠んだ歌を盗作して自分の歌として書き出すなどという行為は絶対に許せない。また、そのような歌をろくに選考もせず、第一位に入賞させた当日の審査に当たられた教職員諸氏の、文学的レベルの低さと判断力の弱さに、生徒の立場としては誠に残念に思う次第であります。以後、十分反省され、文学的なレベルを高められるよう切に希望する次第です・・・後略」という部分が書かれていたと知らされた。

 私は友人の思い切った正義感に満ちた態度の素晴らしさに敬服させられた。

 そうした抗議文を書いたことで、教職員側からどえらい叱責があるかと思っていたが、何故かそのことについてはその後、何のおとがめもなく月日が流れてしまった。そして、やがてまた、昭和二八年度の点字記念日の当日を迎え、その日の行事は前年と全く変わりなく行なわれた。ただ、昨年と異なっていたことは、友人の出した抗議文が生かされていたようで、短歌、俳句、作文の発表の後、最後にその講評と成績順位の発表の段になって、その年の審査委員長である白石教頭が、

 「昨年の記念日に、短歌の部門で第一位に入賞した『欺きし人の心を許しつつ点字の図書をひたすらに読む』という歌は盗作であり、盗作とも知らずに、それを第一位に選んだ教職員達の文学的教養の程度の低さと、力量が疑われるといったような投書がありました。が、しかし、盗作を見抜けなかったことは確かに遺憾ではあるが、雑誌に載るほどの優秀な歌を第一位に選んだのだから、教職員達の文学的教養も力量もいささかも低いとは思えない。優秀な歌を選んだということは、却って文学的教養も力量も十分にあることを証明したことにある。皆さんはいささかも私達教職員の教養と力量を疑うことなく、安心して授業を受け、学舎《まなびや》の庭にていそしんでほしい」

と、いささかも悪びれず堂々と投書に対し、また生徒達に向かってそう答えたのであった。

 私も友人もそれに対しては特に異議を申し立てることはしなかったが、その日の審査は前年よりも十分慎重だったことがうかがわれたので、投書の意義がやはり生かされたのだと実感したのであった。

 ちなみに私は「点字読む指につめたい予算措置ぬくもる国の施策夢見む」を投稿したが、入賞はしなかった。批判的な内容なので敬遠されたのであろう。

関東地区盲学校の野球大会

 昭和二六年(一九五一年)埼玉県立盲学校の中学部三年に編入した私は、そこで体育の時間に初めて盲人野球というボール競技を知った。盲人野球については、まだ私が三平先生のところで点字の学習をしていた頃、既に先生から聞かされ、おおよそのことは知っているつもりだった。ところが、いざ学校で盲人野球を行なってみると、先生の言っていたものとはいささか異なっていた。その当時は、何故か関東地区ではピッチャーは全盲ではなく弱視が、またキャッチャーは弱視ではなく全盲が当たっていた。それから、ボールはドッチボールを小型にしたもので、先生の言われたようにその中に鈴などは入っていなかった。ボールの弾んだり転がったりする音を聞いて全盲は追いかけ回したり、バットを振ったりしていた。私は守備にもついたし、バットも握ってはみたが、およそ一人前の全盲の選手並には到底及ばず、それについては遠い未来のことのように思えたのだった。だから私は、野球部に籍を置いてはいたが、ほとんど練習には出なかった。

 その年の野球部の活躍は何故か振わず、五月の末にある関東地区盲学校野球大会に参加するため、毎日棟習をしていたにもかかわらず、五月の中旬に練習試合の名目で行なった私立熊谷盲学校との試合も、意気込んで出向いた割には勝機をつかめず、思いがけなく敗北してしまったのである。監督の荻窪教諭はその試合を反省しながら何度もミーティングを持ち、練習を重ねていたが、都立八王子盲学校の主催による関東地区盲学校野球大会でも振わず、結果的にはリーグ戦三試合とも残念ながら破れ、帰ってきた。

 翌二七年(一九五二年)の関東地区盲学校野球大会は、五月の下旬に神奈川県立平塚盲学校の主催で行なわれた。この年は埼玉県立盲学校の野球部は、昨年とは見違えるような目覚ましい活躍を見せ、埼玉盲の属していたグループのリーグ戦三試合とも見事に勝ち進んだ。即ち、二日間にわたって、山梨盲、神奈川県立平塚盲、栃木盲の三校にそれぞれ激戦の末、勝利をおさめたのであった。そして、いよいよ決勝戦に都立文京盲学校と対決し、二グループのリーグ戦の優勝戦を行なったのであった。

 しかし、残念ながら力及ばずして埼玉盲は都立文京盲に、十六対一の大差で破れ、優勝を逸し、準優勝ということになったのである。その日参加した選手の話によると、埼玉盲の選手も真剣に戦ったのだが、相手の都立文京盲の弱視の浅賀《あさが》投手の、絶妙なコントロールとスピードボールに抑えられ、一方、相手チームの強力打戦にこちらの投手は三試合連続の疲労も手伝ってか、強打されて敗北したということであった。

 私が予備選手の立場ではあったが、関東地区盲学校野球大会に出場したのは、昭和二八年(一九五三年)の千葉県立盲学校主催の大会で、私が高等部本科二年生の時だった。

 私はその大会に参加するひと月ほど前から体調を崩し、いつの間にか肺を侵されていたようだった。しかし大会に出場したかったので、次第に悪化していく症状を知りながら、それを押し隠して真面目に練習に努めていた。粘り気のある痰を咳と一緒に一日十数回も排出するようになり、体温もずっと微熱が続き、咳をするごとに顔をしかめるような胸痛を覚えたが、「単なる風邪ですよ」と言って練習を続けていた。

 関東地区盲学校野球大会も、その年から全国並に全盲がピッチャー、弱視がキャッチャーの十人野球を行なうことになった。ボールは男子用ハンドボール第三号を使用することになった。

 野球大会の会場は千葉県立盲学校の校庭と、そこから徒歩で二十分ほどのところにる千葉県営球場の二ヵ所で、リーグ戦方式で開催された。

 千葉県営球場はやや古めかしい野球場らしく、一応観覧席や選手の入るベンチは設けられていたが、設備がおそまつで、現在のような整った野球場のベンチとは比べものにならないものだった。グランドもそれほど整備されておらず、外野の辺りは芝生ではなく雑草が繁茂していたので、全盲の選手には打球が補球しにくいのではないかと懸念された。

 開会式はその県営球場で行なわれた。五月三十日のその日の空は晴れわたり、初夏の太陽がグランドいっぱいに照り映えていた。

 埼玉盲の最初の試合の相手は都立八王子盲だったが、我が埼玉盲の加藤投手の右腕が冴え、こちらの選手のバットも快音を発して、八対二のスコアーだったように覚えているが、軽く一勝した。古いとはいえ、千葉県営球場のグランドで歌う埼玉県立盲学校応援歌は誠に快く、私の耳に感動的に響いた。この埼玉県立盲学校応援歌は、昭和二六年(一九五一年)の五月初旬に、当時高等部本科三年生だった栗原育夫氏が作詩し、音楽科の村田陽太郎教諭が作曲したものである。この歌の詩は栗原氏がわずか一時間の寄宿舎の自由時間に書いたもので、出来上がった時の歌詞は確か五番まであった。何故かと言うに、私はその時、出来上がった詩をすぐに栗原氏に読んでもらったからよく覚えている。しかし五番までは長過ぎると考えたのか、実際に応援歌として発表された歌詞は一番、三番、五番の歌詞がピックアップされたのだった。だが、私も作詩した栗原氏も二番と四番の歌詞を全く忘れてしまっているので、五番までの歌詞が作られたことは証明できない。

 さて、一勝して意気が大いに上がった埼玉盲の次の相手は、宿敵の都立文京盲なので油断はならなかった。午前中はやや暑かったが、風がなかったので絶好の野球日和だった。ところが、昼食をとり始めた頃から風が吹き始め、砂塵を巻き上げ、やや試合のしにくい状態に変わってきた。しかし、千葉盲と都立文京盲との試合はそんな中でも予定通りに行なわれた。観覧席で観ていて、試合はやりにくそうで気の毒だった。試合慣れしている都立文京盲は、千葉盲の投手の乱れに乗じて好球必打し、試合を有利に展開したので、スコアーは記憶していないが悠々と勝利を勝ち取った。

 埼玉盲と都立文京盲との試合は四時半を少し回った頃に開始された。ところが、何たる好運か、その試合の始まる二十分ほど前から不思議に風が止み、グランドは静かな状態になり、盲人野球を行なうには絶好の状態になったのである。三塁側、一塁側両側のベンチに選手が入ると間もなく、観覧席や一塁側ベンチでは埼玉盲の「赤間の流れ澄むほとり」が、三塁側からは都立文京盲の「墨田の流れ水清く」の応援歌が元気いっぱい歌われ、激しい応援合戦が始まった。埼玉盲の先攻で始まった試合は、一番打者の安喰氏がライト線に二塁打を放ちチャンスを得たが、都立文京盲の、ライオンの吠えるような声の匹田捕手のリードによる斉藤投手のスピードと、絶妙なコントロールの球に埼玉盲の選手達は抑えられて、最初のチャンスを逸してしまった。ところが、都立文京盲の選手達も埼玉盲の加藤投手の右腕に抑えられ、三回の表までは投手戦のように見えた。

 ところが、三回裏の都立文京盲の攻撃の時、ワンアウト満塁の後に続く、各打者の続け様の三塁べース際の猛ゴロ攻撃に、名手といわれた青木五郎をしても守り切れず、四点という得点を相手に与えてしまったのだ。しかしまだ二回の攻撃があるからと埼玉盲は四回の表に必死に攻撃し、村田と栗原氏のヒットで一塁、三塁のチャンスをつくり、反撃のチャンスをつくったかと思われた。が、大滝に代わりボックスに入った新井宗作氏のホームラン性の大きなフライをキャッチされ、敢えなくチャンスを逸してしまったのである。

 スピードボールには滅法強い大滝が、この試合の始まる前から緑内障性の眼痛と頭痛で試合に出場できなかったこと。埼玉盲に一年だけ籍を置いていた視力には恵まれている田村氏が、本試合になると意外に振わず、そのバットからは少しも快音を発しなかったこと。こうしたことが監督の石岡教諭には大きな目算違いとなり、結果的には四対〇でまたまた都立文京盲に勝ちを譲り、優勝戦に進む夢はあえなく消え去ってしまったのである。

 大会で宿敵に負けた悔しさを応援歌を歌うことで紛らわそうと、私は大声を張り上げたが、その胸の内は誠につらく、むなしく、悲しいものだった。私は初めての経験だっただけに、それは一層深く胸に応えた。

 その年の決勝戦は都立文京盲と教育大付属盲との間で争われたが、十対三で教育大付属盲が優勝したのだった。我が埼玉盲は二勝一敗一引き分けの成績で第三位となった。私は結局はただの一度も試合に出る機会はなかったが、それでも千葉まで予備選手としてでも出向いていった嬉しさは、決して忘れることはできない楽しい思い出の一ページとして、こうして書くことができる。唯、無理がたたったのか、帰校して間もなく病状が悪化し、それから約四十日ほど家庭療養をすることになってしまった。それでもその時の私は決して悔やむこともなく、また不幸だとも思わなかった。

 野球については、校内でも一日の授業を返上して行なう楽しい校内野球大会があった。時期は十一月の末に行なわれていた。チームは小学部と専攻科とが一緒になった小専部と、中学部と高等部(本科別科)の三チームでリーグ戦方式で行なわれた。

 私は高等部に属していたが、昭和二八年(一九五三年)に高等部の応援歌を作ろうということで、私が「埼盲高等部応援歌」というのを作詩、作曲したことがあった。歌詞は「見よや埼盲高等部」の一節から始まるものだったが、結局は歌われることなく終わってしまった。埼玉盲に転校してきでからは、あまり野球の練習をしていない茂木幹央が、学生服のままピッチャーマウンドに立ち、右腕をふるっていたことが、特に懐かしく思い出される。

二人の恩師の死

 岩崎文子教諭が埼玉県立盲学校の音楽科の教師として着任したのは、昭和二七年(一九五二年)の十月頃だった。岩崎教諭は音楽でもどちらかというと日本音楽の邦楽の方が得意で、特に琴を演奏する腕前は素晴らしいものであった。しかし、盲学校の音楽科教諭の免許を取得していたので、西洋音楽の方の知識も熟知していた。だが、岩崎教諭自身が言われていたように、ピアノの演奏は琴の演奏ほどにはうまく出来ないということで、放課後はいつもピアノに向かっていた。岩崎教諭はそのように自分の欠点を素直に認め、全てのことに謙虚に対処していく人柄だったので、授業も気の毒に思えるほど真面目だった。私達のクラスの音楽の授業時間に弾くピアノの曲を、いつも放課後練習していた。

 ある日のこと、偶然に岩崎教諭と話をする機会があった。岩崎教諭は私に向かって、

「私は今は音楽科の先生をしているけれど、按摩師、鍼師、灸師の免許も持っているのよ。だから給料がなくなると按摩のバイトをして過ごし、ゲルピンの時を切り抜けるのです。ですから、安心して好きなことが出来るし、音楽会や筆曲の発表会にも顔を出すことが出来るのだわ」

と言い、極自然な形で私の肩を按摩してくれたのだった。按摩をしてもらって驚いたのだが、日頃専門的に行なっていないのにもかかわらず、確かにその技術は私の仲間達よりは、はるかに手のかれた優秀な腕前のように感じとれた。按摩の技術では人一倍自信を持っている白石教頭が、後に岩崎教諭に按摩をしてもらった感想として、

 「あの岩崎先生は音楽の先生だが、理療師の免許も持っているんだなあ。だから、按摩が実にうまい。この間、僕は肩を揉んでもらって大いに感心させられたよ。それに岩崎先生は、全盲の女性としてはどちらかというと大柄で、力も十分にあるので僕は大いに満足したよ」

と、真面目な口調でその技術を高く評価していた。身長一五八センチ強、体重五四キロ弱という体格だと岩崎教諭自身が言っていたから、白石教頭の言う当時の全盲の女性としては、確かに恵まれた体格であった。

 岩崎教諭は、市内の本町の銭湯に行く道筋で、札の辻から市役所の方へ向かうアスファルト道路に直角に交わる小さな泥道を、学校から向かって行くと、左側にある焼いも屋の裏の下宿屋の二階に居住していた。下宿屋の奥さんは岩崎教諭のことを、勘の良い素晴らしい女性だと褒めていた。

 私達のクラスは、特に音楽的に才能のある者がいなかったので、音楽そのものに深く興味を持たなかった。が、それでも授業には素直にさぼらず顔を出し、ちゃんと課題曲を歌っていた。岩崎教諭は授業中、めったに説教がましいことは言わず、いつも穏やかな優しい雰囲気で授業をしていたから、私達も自然に真面目に授業を受けていた。

 そんな岩崎教諭の学校での勤務や生活の一面を、菅間教諭はそれとなくまるで優しい父親か年の離れた兄のように、いつ頃からか助力の手を差しのべていた。菅間教諭の人柄については私達も普段から尊敬していたので、時折、菅間、岩崎両教諭が並んで校門を出て行く時などに出会うと、敬愛の念を持って挨拶したものであった。ところが、菅間、岩崎両教諭のことでそれからしばらく経った頃、不思議な噂が流れてきたのだった。それは、寄宿舎の北寮(女子寮)の舎監室で、夜、明かりを付けず菅間、岩崎両教諭が真っ暗な中で、二人で小声で話しながら何かしているということであった。それはどうということではなかろうが、教師達といえども男女の間柄なので、何となく気になる…という噂話であった。そこで私は失礼だとは思ったが、意を決してある夜、自習時間に舎監室で仕事をしていた菅間教諭に、噂されていることを正直に話し、どうして部屋を真っ暗にして二人でいるのかと問うてみたことがあった。

 ところが、その時、菅間教諭は私の問いに対して少しも悪びれず、仕事の手を止め、私の方に向かって落ち着いた声で、

 「ああ、そのことか。それはね、確かに君達からみると先生達のしていることは不思議に思えるだろうな。だが、よく考えてみなさい。僕と岩崎先生とで二人でお話しすると、僕は岩崎先生の顔や姿が見えるが、岩崎先生は僕の顔や姿が見えないだろう。それじゃあ本当に僕が全盲の人の気持ちになって話をしようと思っても、とても難しいと思ったんだ。だから僕は部屋を真っ暗にして、お互い顔や姿が見えないようにして、全盲の生徒達がお互いの様子を知り合うような関係になって話をしようと、二人で決めていつもそうしているんだよ。そんな訳なので、君達は何も心配しないで先生二人を信じたまえ。そのお陰かも知れないが、僕は最近細かな物を手で触れて分かるようになったよ。岩崎先生も僕がそうして話をするので、大変喜んでおられるのだよ」

と、いかにも嬉しそうにこう語ってくれたのだった。今考えてみれば、いくら若気の至りとはいえ失礼な振舞に出たものだと、自分の愚かさをしみじみ反省させられるのである。

 その菅間教諭が昭和二九年(一九五四年)の三月の中旬に突然、既に持病として持っていた胃潰蕩の病状が悪化し、大吐血を繰り返し、市内の岸医院に急遽入院した。菅間教諭は学芸会での演劇クラブの指導で、忙しく毎日を送り、自宅へ帰って落ち着いて休むこともなかったようであり、その疲労の蓄積が今度の病状の悪化と、大吐血の発作となったようである。

 学芸会の終わった翌日だと思ったが、岩崎教諭の下宿先を訪れた時、最初の大吐血の発作があったことを私は知らされたのだった。そこで、学校では教職員や生徒達が献血をしたりして、菅間教諭が一日も早く回復することを祈り願っていた。が、しかし、最初の大吐血を発してから四日目頃に、悲しいことに菅間教諭は落命されてしまったのである。菅間教諭の死は教職員や生徒達に大きな衝撃を与えたが、中でも岩崎教諭の衝撃は多大であったようで、学校葬の形に近い菅間家の庭で行なわれた告別式のその場でも、声をあげて悲しんでいた。

 生徒の中で一番衝撃を受けたのは川口暁子だったようだ。川口は菅間教諭の通夜の日、

「せめてもう一度、菅間先生にお会いして心からお別れを言いたい」

と言い、純粋な気持ちで唯一人、東松山街道を川島の伊草方面に、菅間邸に向かって歩いて行ったようだ。だが、残念なことに道を間違えたのか、菅間教諭の家が見つからなかった。しかし、学校ではそんなことは少しも知らなかったので、「川口がいない」ということで寄宿舎では大騒ぎになり、八方手を尽くして寮母や舎監や生徒達が捜索した。幸い午後九時頃、川口は寮に帰ってきた。一同はほっと胸をなでおろしたが、一時は皆、激衝的《げきしょうてき》な川口のことを考え、つまらぬことまで想像したり、またその時期、そろそろ出没しつつあった痴漢の攻撃やいたずらのことをも恐れ、心配していたのであった。

 菅間教諭の死亡した三月は、日本にとって衝撃的な事件が伝えられた。それは三月一日の未明、ビキニ環礁《かんしょう》でまぐろの操業に従事していた日本の漁船第五福竜丸が、秘密裏のうちに行なったアメリカの水爆実験と遭遇し、大量の放射能を含んだ死の灰を浴びてしまったという国際的な事件だった。福竜丸はその時、真実、真相のわからぬまま操業を中止し、二週間かかって静岡県の焼津港に帰港したのである。無線長の久保山愛吉《くぼやまあいきち》氏はそのために重症の原子病にかかり、同年九月二三日に不帰の客となった。

 三月の水爆実験以降は、築地をはじめ全国の魚貝類を扱う市場や店々が、そのため営業不振となり、日本人は一時、魚貝類にかかわる原子病アレルギーになったのである。

 ところが、四月に入り昭和二九年度の新学期を迎えてひと月ほど経った頃、岩崎教諭がカルモチン三十錠をいちどに服用し、いわゆる睡眠薬自殺をするという信じられない悲しい出来事が起こったのである。岩崎教諭の声を私が最後に聞いたのは四月二八日の生徒会予算審議会の席上だった。私は議長だったので、音楽クラブのことに関して内容はしかと記憶してはいないが何か質問したのだった。すると岩崎教諭は会場の後方に近い座席の辺《あた》りから私の問いに対し、明瞭な口調で答えていた。が、まさかその時、岩崎教諭がその日の夜に自殺はかるなどとは夢にも想像しなかったのである。岩崎教諭がカルモチン三十錠をいちどに服用したのは二八日の夜のようで、それは偶然にもちょうど菅間教諭が亡くなった日から四十九日目の夜だった。

 話によると翌朝、岩崎教諭が起きてこないので、下宿屋の奥さんが岩崎教諭の部屋に行き、その事を発見したのだとか…。発見した時は昏睡状態でまだ死亡してはいなかったという。すぐに学校に通報され、数名の教職員が駆け付け医師の往診を依頼、胃洗浄も行なわれたようであった。が、大量の睡眠薬の服用は岩崎教諭を昏睡から醒めさせず、丸二日間その状態のまま、天国へ召されてしまったのだった。一人の人間の死、それも意志の上での自殺は、私達生徒にとっては大きな衝撃とたまらない悲しさ、寂しさを与えたのだった。告別式の日は、五月の初旬にしては冷たい雨が降り、暗く寒々しい日だった。

 生徒会代表として葬儀に参加した茂木の話では、ちょっと不気味さを覚えたような天候の中での葬儀だったとのこと。学校側の代表者としての管理職は一人も参加せず、教職員の参加者の数も、岩崎教諭とごく親しかったわずかな人達しかいなかったので、一層暗いもの寂しい感じだったということであった。学校葬に近い大層な菅間教諭の告別式の時とは、雲泥の差だったとも茂木は言っていた。

 それを聞かされた時、死の原因が自殺故に学校側は小規模な形の葬儀にしたのであろうが、しかし、教職員の中に何人かの寺の住職もいて、しかも仏教道に生きる人間生活を営んでいる人でありながら、何故こんなに粗末なと言ってもいいほどの小規模な扱いの葬儀にしたのか、私には疑問でならなかった。

 五月一日の午前中の授業で白石教頭が、

 「通夜があったので、数人の先生と一緒に岩崎先生の部屋にすぐに駆け付け、失礼だと思ったが体を見せてもらった時、肛門括約筋反射が既になくなっていたから、私はその時、内心助からんと思ったよ。どういうことで睡眠薬を飲んだのかわからないが、いい先生だっただけに残念なことだな」

と、話していたのが印象的だった。先輩達は、

 「菅間先生が亡くなったことで、菅間先生を父か兄のように慕っておられた岩崎先生は大きなショックで、絶望感に陥り、自殺をしたのだろう」

などと噂し合っていたが、真実は不明だった。ただ岩崎教諭が亡くなる一週間ほど前に、偶然校庭で言葉を交わしている時、

 「私はもうすぐ按摩師、鍼師、灸師の免許証はいらなくなるから、あなたにあげましょうか」

と、言ったので、

 「免許証を僕にくれたら、先生はアルバイトができないでしょう」

と言うと岩崎教諭は、

「もうアルバイトをする必要はありません」

と、平然と答えたのだった。だが、無神経な私は、この岩崎教諭の言葉に何の疑問も持たず、単なる冗談だと思って聞き流してしまったのだった。後になって分かったことであるが、岩崎教諭は同じようなことを安喰氏にも話していたようであった。

 このようにして、わずかな期間の間に優しかったこ二人の恩師を失ったことは、生徒達には大きな悲しい出来ごとで、忘れることのできない、ショッキングな事であった。

きつねうどん・焼そば・屑煎餅

 私が県立盲学校の中学部三年に編入した頃は、まだまだ食糧事情は十分でなく、庶民の心にも肉体的にも満腹感を与えてはいなかった。特に盲学校に限らず寄宿舎のような形態で集団生活を行なっているところでは、その内容は質的にも量的にもとても十分とはいえないレベルの低いものだった。学校の教職員もそのことについてはいろいろと考えてくれていたようで、その年も一学期中は学校給食の方式を採用し、生徒達の栄養面での課題に真剣に対処していた。しかし、私には脱脂粉乳のミルクは腹調をこわしやすいのであまりなじめなかったが、食パンやコッペパンの主食と皿に盛られた各種のおかずにはどうにか挑戦でき、結構楽しい昼食の時間をおくっていた。

 ところが、そのうち、業者から学校へ配送される主食のパンの遅配が何度も続くようになり、昼食時には間に合わず、五時間目の終了時や、一日の授業が終了した午後三時頃、ようやく配送され各教室へ配布されることが多くなった。そんな訳でやむなく昼食時にさつまいもやじゃがいもの蒸したもので、急遽補充するということがよくあった。そんなことが度重なったので、生徒達の中には、次第に学校給食そのものへの不満を申し出る者がいて、学校側もその事態について真剣に検討したようであった。

 どんな理由で学校給食が中止になったのか、私達生徒には知らされなかったが、給食を楽しみにしていた者にとっては誠に残念なことだった。学校給食が中止になったので、二学期からの昼食は、通学生は原則として弁当の持参を要請され、寄宿舎生は舎の食堂で昼食をとるようになった。したがって、通学生の中には弁当を持参せず、近所のパン屋などからコッペパンを購入したり、一杯二五円のきつねうどんを、矢沢という店まで食べに行く者も出てきたのであった。矢沢という店での一杯二五円のきつねうどんは、味の方はまあまあのものだったが、量においては、高等部の生徒達には満足できるほどのものではなかった。だから、その他に近くの店で売っている一皿十二、三円の焼そばを食する者もいたのだった。

 矢沢の店のおばさんは、甲高い声の五十歳位の年格好の人だったが、元気でなかなか愛嬌が良く親切だった。うどんは全てそのおばさんの手による手打うどんであったので、田舎びた独特の味のものであった。

 きつねうどんといえば、こんなことがあった。岩崎教諭が亡くなって間もない頃、私はうまいうどんを食わせることで有名な市役所の傍にある「なわのれん」という店に新井宗作氏に誘われ、一杯三十円のきつねうどんを御馳走になった。その時先輩はうどんを食べながら小声で、

 「岩崎先生が昏睡状態の時、部屋に行かれたある先生の話によると、部屋の中はきちんと整理、整頓されており、置かれた座り机の上には、ロウソクを灯した跡がある小さな燭台と、開かれたままの点字の聖書と、空になった真新しい薬箱があったようだね。敬虔なクリスチャンだった岩崎先生は、後に不快なものを残さぬように気配りして、静かに天国への階段を昇って行ったんだろうな…」

と、岩崎教諭の思い出話になった。

 学校の近くに仲間達が「でんこうの店」とか「明美ちゃんち」と呼んでいた駄菓子屋があった。その店では安い焼そばやジュースや駄菓子を売っていたので、気軽に立ち寄ることができ、それなりに店は賑わっていた。

 私や茂木や大滝や岩田などクラスの寄宿舎生は、その店からよくかりん糖を買って帰り、部屋でそれをかじりながら、何か話題を見つけては語り合う楽しい時間を設けていた。

 でんこうの店の「でんこう」というのは、その店の主人のニックネームのようであり、明美ちゃんちの「明美ちゃん」というのは、その店に私達が出向いた最初の頃、時折店に顔を出していた二十歳前後のかわいらしい声の娘の名前で、店のおばさんの姪だということだった。

 明美ちゃんという看板娘がいたことで、盲学校の生徒達はよく出向いて行ったが、おじさんもおばさんも気のいい人だったので、明美ちゃんがいなくなっても相変らず店は賑わっていた。おばさんは何となく艶っぽく、色気のようなものが感じられる四十歳半ばの人だったので、店に客のいない時、私が、

 「おばさんは生まれはどこですか。以前は何の仕事をしていたのですか」

と、問うてみると、おばさんはちょっと恥かしそうにしながらも、

 「私は元秩父の町に住んでいたんだよ。そして前の仕事は『そめ子』という名の芸者だったんだよ。きっと大嶋さんのお父さんに聞いてみれば知っていると思いますよ」

と、割に明るい声で答えてくれた。そんなことがあってから、私はこのおばさんと気軽に語り合うようになっていった。

 「中島」という屑煎餅を売る店が評判になったのは、昭和二九年(一九五四年)の頃だったと思う。とにかく屑煎餅というのは、一人前の整った形に出来上がらなかった、いわゆる出来損ないの商品だったので、格安の値段で相当量購入できるという、私達にとっては誠に都合のいい食べものだった。だからいつの間にか寄宿舎の仲間達の好みは、かりん糖から屑煎餅に変わっていた。屑煎餅というあまり良い商品名ではなかったが、その煎餅の味そのものは良かったので好まれたのは当然のことと言えようが、それにしてもよく食べたものであった。中間試験や期末試験の、全てが終了した直後の解放感に浸る時、よくこの屑煎餅をかじりながら皆で声を揃えて、

「万歳、万歳、万歳」

と元気いっぱい叫んだものであった。「万歳」の叫びがあまり大きかったので、米山校長が何事かと思って、私達のクラスまで様子を見に来たことがあった。

弁論の花開く

 昭和二八年(一九五三年)の秋は、埼玉県立盲学校に弁論の花が開いた。それは生徒会の顧問の恩田教諭にしてはめずらしく、

 「今年の校内弁論大会は、出場者の多くがその論旨も声量も表現力においても、近年にない素晴らしいもので、審査する者も聞いていて誠に快かった。出場された生徒諸君は勿論、今後出場しようと思っている諸君は、今日のこの充実した弁論大会のことを忘れることなく、より以上の大会が今後持てるよう努力して下さい」

という賞賛の言葉があったほどの、活気に満ち満ちた弁論大会であった。当時は、生徒会がまだ小、中、高、専と一本化して組織されていたので、弁士は小学部からも出場したのである。

 生徒会の児童生徒の総数が九十名ほどだったので、その中から弁論大会に出場する者は十二、三名だった。

 その大会の内容や出場者の氏名については、四十年ほど前のことなので記憶が定かではないが、印象に残っている者だけを挙げてみると、それは次のようなことだった。

 まず小学部では小六の加藤忠男と木村功《いさお》、中学部では中二の中村文夫、小野隆作、川口暁子、中三の守谷茂、高等部では本科二年の茂木幹央、宗像怜子、専攻科一年の新井勘七氏などであった。それらの出場者の演題の方はどうしても思い出せないし、論旨についても同様、わずかの記憶しか残っていない。

 盲学校の校舎の階下に特設された会場には、小学部の四年以上の児童生徒と、二十名以上の寮母を交えた教職員の参加によって生じた熱気が溢れて、弁論大会は大いに盛り上がりを見せていた。

 折しも教室の中ほどまで秋の陽光が差し込んでいたので、室内は晴れやかな明るい雰囲気を醸し出し、会の楽しさを倍加してくれていた。

 その日の校内弁論大会が、何故そんなに活気に満ちたものになったかというと、その日の優勝者と準優勝者、即ち第一位の者と第二位の者が、関東地区盲学校弁論大会に出場する資格を得ることができることになっていたからである。だから、出場者は皆、恩田教諭が指摘していたように、それなりに素晴らしい弁論の出来映えだった。思いつくままに記すと、加藤は灰皿が飛び交う国会の乱闘ぶりを批判し、これが民主政治といえるかと言い、中村は全ての真実は神の手による神秘的なものではなく、人間の科学的な思考によって明らかにされるべきものであると論じた。川口はもっと多くの点字書を読めるような、そしていろいろなことについて学習できるようにしてほしい、という熱望を唱え、茂木は学問の自由を保障せよと主張し、宗像は科学と人生との深い関わり合いを強調し、新井氏は民主化を阻む権力や物欲の不当性を論じていた。

 このようにして行なわれた画期的な校内弁論大会において、関東地区盲学校弁論大会に、晴れて出場できる名誉な資格を得たのは、中学部二年の中村文夫と川口暁子の二人であった。選ばれた二人はその後、指導顧問の大原千鶴子教諭の厳しさの中にも熱意のこもった指導を連日受け、論旨を修正し、発声練習から表現法を実践的に学び且つ訓練していった。二人とも寄宿舎生だったので、毎晩自習時間後、宿直の教職員の許しを得て、静まり返った校舎内で熱心に弁論の練習を重ねていた。それは放課後の練習に更に加えての練習なので、二人共大変なことであろうと思われたが、しかし二人はその厳しい試練にも耐えて、ずっと努力を続けていた。その結果、その年の十月下旬に茨城県立盲学校の主催で行なわれた関東地区盲学校弁論大会では、二人共上位に入賞、特に川口は第二位の成績を獲得し、総合的には学校優勝という華々しい栄誉を勝ち得たのであった。

 中村と川口が大会で優勝したことで、埼玉県立盲学校は関東地区の中で弁論の優秀校という評判がたち、特に弁論部というクラブはまだその頃にはなかったが、弁論に興味をもつ者が少しずつ増えていったようであった。

 中村と川口の弁論は、その翌年にも更に磨きがかかって素晴らしくなってきた。その年、昭和二九年(一九五四年)の秋に群馬県立盲学校の主催で行なわれ、関東地区盲学校弁論大会では前年同様、二人共上位に入賞、中村は第一位の成績を獲得し、総合的にはまたまた学校優勝という、輝かしい栄冠を連続して勝ち得たのである。

 埼玉盲では、その後昭和三十年(一九五五年)に生徒会の中に弁論クラブができ、指導顧問のもとで更に研鑽《けんさん》を重ねていった。また、その頃、近隣の高等学校で主催される弁論大会などにも積極的に参加して、それなりの評価と成績を修めていた。その年の九月の中旬頃だったと思うが、県立川越高校の弁論部の主催で、近隣の高校の弁論部の生徒を招待しての弁論大会が開かれた。関東地区の盲学校の中では、二年も続けて学校優勝をした埼玉県立盲学校ではあったが、それまでは県立川越高校の大弁論大会には出場したことがなかった。噂では、この大会は特に各高校とも優秀な弁士を送ってくるので、どの弁論も内容が充実していて、なかなか成績の順位を決め難い審査員泣かせの大会だということであった。そのような噂の、格調の高い弁論大会に一度は挑戦してみよう、それらの優秀な弁士達と肩を並べて競い合ってみよう、という意欲が盲学校の弁論部員や指導顧問達の中にふつふつと起こってきて、その大会に出場することにしたのである。

 表面的には一般高校の生徒達と交流の場を作る絶好の機会だから、参加することだけでも意義があるのだ、ということで参加したのであるが、上位に入賞できれば、という願望が弁論部員だけではなく、私達のような部外の生徒達にも正直あったのだった。

 その日の盲学校を代表する出場弁士は、川口暁子と、その年盲学校の高等部本科一年に入学してきた、新人の岩内節子《いわうちせつこ》の二人だった。岩内は、埼玉大学付属中学校を卒業間近に、不運にも緑内障という眼病に見舞われ、失明してしまったのである。盲学校に入学したのは二年ほどの通院生活の後のことであったが、入学時にはまだ点字の読み書きがままならなぬ状態だったのに、たちまちそれを克服し、一学期の終りには優秀な成績を修めるという、頭脳と努力を持ち合わせた女生徒だった。

 その日は確か土曜日の午後であったかと記憶しているが、弱視者の話では、まだ幾分暑さが感じられるよく晴れた日のようだった。県立川越高校の広い講堂には八分どおりの人々が詰めかけていた。セレモニーは、形どおり学校長の挨拶、指導顧問であり審査委員長でもある県立川越高校の近藤教諭の挨拶と、注意事項があって滞りなく終わり、出場者の弁論が次々と展開された。埼玉県立盲学校からのその日の聴衆は、米山校長、大原教諭をはじめ数名の教職員と二十名余りの生徒達が講堂の後方の座席に並び、適当に野次を飛ばしながら声援を送っていた。その日の川口の弁論のタイトルは記憶していないが、

 「按摩、鍼、灸という職業が盲人の社会的自立と生活の保障のためには、現在ではなくてはならぬものであること。また以前のような徒弟制度によるものではなく、学校教育の中で学ばれるものであること。基礎と臨床の医学知識を基とし、実技の訓練を兼ね備え、学理と技術を専門的な形で身に付けること。そして検定試験に合格した者だけが行なうことのできる現代医療の一翼を担うものであること」といった内容のものであった。

一方、岩内は、「視力に障害があっても、高校生として明るく楽しい高校生活を送ることのできる喜びと、学業の道に勤しめる嬉しさを称え、未来への盲女子学生としての夢を具体例を挙げながら、現実の生活をもまたしっかりと知らしめる」というものであった。

 この二人の盲学校の女生徒の弁論は、盲学校関係者以外の聴衆者の耳を完全に捉え、要所要所で拍手が起こったり、建設的な野次が飛んだりして、聴衆感はまさに満点の評価に等しいものであった。私はそうした拍手を聞きながら、自分自身に向かって、

 「これでいいんだ。これでいいんだ。今日の結果はもうどうでもいい。これで盲学校の生徒が一般高校の優秀な弁士と、立派に肩を並べて弁論を競い合うことができるんだ」

と呟いたことを覚えている。十数人の出場弁士の弁論がひと通り終った後、シーンとした講堂内での息詰まるような緊張感の中で、審査委員長である県立川越高校の近藤教諭が審査委員会の意見を代表し、講評がなされた。その中で委員長は、川口、岩内の論じた論旨の内容が単なる理想論や空想論ではなく、具体的な生活体験に根差しての優れたものである、といったような講評を聞いた時、私は何となく二人とも入賞するのではないか、という嬉しい予感がした。

 果たせるかな、結果は私の予感どおり二人は入賞し、驚いたことに川口は第一位で、新人の岩内は第四位。ここでも総合的に学校優勝、という栄誉を得たのであった。

 二人が入賞し、且つ総合的に学校優勝という成績を修めたので、米山校長は大変なご機嫌で、二人を連れ、盲学校の参加者のいる座席のところに来ると、全員に握手をして回っていた。

 しかし、ちなみに第二位となった県立川越高校の大野君は『終戦十年』というタイトルの論旨で、憲法は戦争放棄を唱え再軍備をせぬことを明らかにしながら、独立国となるとそれと共に警察予備隊から保安隊、更に自衛隊へと変貌しつつある日本政府の反動的な有様をつぶさに述べた。そして国民生活や教育問題の変遷を一つずつ短く具体例を挙げながら述べ、終戦十年の概要を明快に論じたもので、審査委員長の近藤教諭をして、

 「論旨だけを言うならば、この大野君の論旨は抜群の出来映えである」

と言わせた。その内容と表現にはいささかも無駄のない論旨であった。

 翌日の埼玉新聞に優勝カップを持った川口と、第二位の大野君と岩内が前列に並び、米山校長と指導教諭の大原教諭とが、後方でにこにこしながら立っている写真が掲載されていたということであった。

 中二、中三の二年間、関東地区盲学校弁論大会で入賞し、優れた成績をあげた中村は、昭和三十年(一九五五年)の五月頃大阪で開催された全国盲学校弁論大会に出場、また昭和三二年(一九五七年)に加藤も同様、全国盲学校弁論大会に出場して、それぞれ優秀な成績をあげ入賞した。特に加藤は第二位という栄誉を勝ち得た。その年、加藤は、高等部本科一年に入学した年であったが、指導顧問の話では、まさに彼の弁論の最高潮の時期であったということだった。また川口は、どこの団体の主催であったか記憶していないが、昭和三十年(一九五五年)の十二月初旬に東京で行なわれた、全国高等学校有志弁論大会に出場し、第四位に入賞するという輝かしい成果をあげ、埼玉県立盲学校の弁論の水準を高めていったのであった。

 そうした間に、埼玉県立盲学校でも昭和二九年(一九五四年)の二月に、校内放送の施設工事がなされた。放送機器の本体はしばらくの間、校長室に置かれ、十分には使用できず、生徒会やその他での放送機器を使用しての活動は、半年ほど後までほとんど行なわれなかった。また同年三月三一日に、旧校舎の西側の前に広がっていた校庭の一部に、平屋建ての新校舎四教室(後に六教室に改造)が建てられ、五月の中頃、校庭でその新築を祝う落成式が行なわれた。更に同年九月に、神明町に新しい寄宿舎を建てるための敷地を購入した。新寄宿舎はその後、昭和三二年(一九五七年)十二月に二階建てのものが建築され、上学年の寄宿舎生がそこへ移っていった。

 しかし、まだその当時は体育館兼講堂は造られていなかったので、文化祭などの行事のための中央会場は、新校舎の三教室の境界壁を取り除き、特設講堂を造って行なうほかはなかったのである。

生徒会選挙

 私が中学部三年に編入した当時は、高等部にはまだ専攻科の設置が認定されておらず、また別科の生徒もいなかった。だから、全校の生徒数は小学部一年の児童から、高等部本科三年の生徒まで全員合わせても八十人程度の人数だった。そんな訳で、生徒会が組織されているといっても小規模なものだったが、学年差、年齢差のあった割には生徒会はよくまとまっていたように思う。

 とにかく、二十三畳の畳敷きの按摩実習室が、いつも生徒会の協議を行なう会場になっていた。思い出すままに記してみると、その当時の生徒会の役員を選ぶのに選挙は行なわれず、まず生徒会長はそこに集まっている者から一人選出したのである。そんな時は大概、最高学年の生徒の中から指名されたようであった。昭和二六年度のその年の生徒会長は、高等部本科三年の栗原育夫氏が選出された。副会長は、会長の指名で高等部本科二年の新井勘七氏という、三十歳を越えた男性が任に付いたのである。

 私は組織そのものが小規模な生徒会だったので、そうした役員人事の方法もやむを得ないと思い、別に疑問は持たなかった。副会長が決まると、総務部長、文化部長、体育部長、厚生部長、購買部長がそれぞれ副会長の新井氏から指名され、その場で承認されたのであるが、特に問題もなくスムーズに会が終了した。何故かその任にあたった者の氏名は記憶していないが、適任者が指名されたのに違いない。そして埼玉県立盲学校生徒会は、関東地区盲学校生徒会連盟に加入することになった。

 昭和二八年(一九五三年)の一月に投票方式での選挙が行なわれた。その役員改選で、私は、新井勘七氏の生徒会長を補佐する役柄である副会長に選ばれた。しかし生徒会役員一年生だったので、その年は何がなんだかわからぬまま、新井氏の下で指令されるままに動き回り、自主的な発言などはまだほとんど出来ない状態であった。

 その年の選挙から立候補者は立ち合い演説会で、立候補に関しての理由や今後の活動方針などを述べることになった。私は自信を持って自己の意見を主張することなど出来なかったので、発言の声もか細く、意気の上がらぬものであった。お陰で、聞いていた友人の一人から、

 「まるでお前の演説は死人か幽霊の挨拶のようだ。あれじゃあ聞いている者には心細い感じしか与えないね」

と言われたものであった。

私が副会長になったことで、会長の新井氏のところへ挨拶に言った時、新井氏は煙草を吹かしながら、

 「まあよろしく頼むよ。慣れてきていろいろわかってくれば、君もいろいろ意見が言えるようになるだろう。それまでは私の言うことに従って協力してくれればいい」と言い、更に、

 「私がこの盲学校へ入学した時、先輩の一人から『東條が来た。憲兵が来た。恐ろしい男が来たから気をつけろ』という陰口をきかれたので、一時困ったことがあったよ。彼も私と同じ失明軍人だったので、私に対し無意味な脅威とライバル意識を持っていたんだろうね。お陰で私はなかなか友達が出来ず、困ったよ」

と、入学当時の苦労話まで聞かせてくれたのであった。

新井氏は、かつて憲兵軍曹だっただけあって、優秀な頭脳と的確なものの見方や冷静な判断力を兼ね備えていた。だから生徒会の運営のすべてについて、傍にいて一緒に仕事をした私には、思考性を養なうのによい勉強になった。

 昭和二九年(一九五四年)の一月になると、また生徒会役員の改選の時期が訪れたが、その年は生徒会長の立候補者が安喰敏起氏、岩田次郎、茂木幹央の三名だったので、生徒会選挙についての話題が、生徒達の中で賑やかに取りあげられた。立候補者の立ち合い演説会は、まだその年の一月には新校舎が完成していなかったので、旧校舎の一室を借りて行なわれた。曇り空の寒い日だったが、会場は熱気と興奮で溢れていた。その年の三人の会長立候補者には、それぞれ応援弁士が一人ずつ付くことになったので、その点においても大変な興味と感心が持たれていた。安喰氏には新井勘七氏が、岩田には守谷茂が、茂木には栗原育夫氏がそれぞれ応援弁士として登場することになった。

 立候補者の演説として、安喰氏は、生徒会全般の充実について触れた後、特に体育関係のクラブの活動の発展を重視した政策を述べた。岩田は前年の十月に確約した中村、川口の弁論の業績をあげ、今年は関東地区盲学校生徒会連盟の中の弁論部を引き受け、本校で弁論大会を行ないたいと言った。二人共、盲学校の生徒会会長としてふさわしい当然の目標を掲げ、建設的な意見を発表したのであった。応援弁士に立った新井氏も守谷も、それぞれ安喰氏や岩田の意見に賛同し、更に支援を強調する意見を述べた。

ところが三人目に登段した茂木の選挙演説は、前の二人の演説内容とは全く異なった、誰もが想像だにしていなかったものであった。生徒会とは全く無縁の、吉田内閣の予算政策の批判を長々と述べ、最後には演卓を叩きながら吉田内閣の打倒を唱え、まるで革新政党の政治家が論ずるような演説を、こともあろうに十五分間も述べたのである。その日の立候補者に与えられた演説の時間は五分以内だったので、茂木のこの演説は時間的にも全く驚くべき異質的、異常とも思われるものであったが、会場の聴衆者は、この驚くべき演説に感心するやらあきれるやらでそれなりの反響があった。

 茂木が途方もない演説をしたので、応援演説に立った栗原育夫氏は、

 「私は、立候補者の茂木幹央君の応援演説をするためにこの壇に上がったのですが、茂木君の演説があまりにも突飛だったので、正直言って演説の原稿をまるっきり変えなければなりません…」

と冒頭に一言訴えた。栗原氏は自分の頭でまとめていた演説の内容を一変させて、応援弁士としての意見を強調しなければならなかったようで、大変苦労したようであった。栗原氏の応援演説が終わった時、会場から茂木に向かって、

 「もっと演説の内容を生徒会に関係のあるものにして話せ」とか、「そんな政治家のような演説は聞きたくない。もっとまともな演説をしてくれよ」とか、「小学部の皆さんにもわかるようなわかりやすい話をしてください」といった注文めいた意見が出された。

 ちなみに私はその年、副会長に立候補したのだったが、私の演説などはまさに取るに足らぬ前座に等しいものであった。しかし、その日の演説会は、奇妙な一面はあったが、何となく満たされた快感に満ちたものであった。

 茂木は突飛な演説をしたので、普通ならば当選は予測できなかった。ところが、選挙の結果は、蓋を開けてみると、安喰氏及び岩田の両立候補者を抜いて、茂木が当選したのであった。何故茂木が当選したのかということを考えるに、有権者の多くは、この茂木という十七歳の突飛なことを言う若武者に、不思議な魅力と興味と期待とを持って投票した者が多かったのではないかと想像されるのである。それに茂木の陰の選挙参謀であった青木が、一所懸命に選挙運動に走り回ったことも見逃すことはできない。とにかく、十代の若さの生徒会長が久し振りに誕生したことは、当時としてはある種の驚きであった。

 当選した執行部の四役員は、会長の茂木幹央、副会長の浅野隆夫、総務部長の大滝順治《みちはる》と、総務副部長(会計)池田米子であった。

会長になった茂木は会員の前にすっくと立つと、まず、

 「皆様方の暖かいご一票によって、当選させていただきましたことを、心から御礼申し上げます」

とお礼と感謝の言葉を述べた後、

 「私はまだ弱冠十七歳。この盲学校の生徒会の歴史においては類のない、若く幼い生徒会長であります。しかし、私はこれまでに生徒会活動に多大なる貢献をされてこられた、先輩諸氏の豊富なるお知恵とご慈愛、ご指導をいただき、皆様方のご期待に報いるよう全力を尽くして、本校生徒会の発展のために頑張る所存でございますので、どうかよろしく御協力をお願い致します」

と、悠然と胸を張って初心を述べたのである。

 茂木はその後、生徒会を自分の希望通り意欲的に運営し、近隣高校の生徒会とも交流を盛んにし、関係を密にしようといろいろ努力を重ねていった。その中で、特にこれまでは学校側で行なってきた学芸会を「文化祭」という名に変えて、十一月の文化の日に生徒会と学校との共催で行なうよう位置付けた。近隣高校の生徒会にも案内状を配布し、盲学校の生徒会活動の宣伝と理解に努力したのであった。また、寄宿舎にもその年から新しく「寄宿舎文化祭」の名で、寮祭的な行事の原型を生み出したのであった。

 その翌年の生徒会の役員選挙に関しては、立ち合い演説会方式をとらず、立候補者は校内放送を通じて、自由に昼食休憩時や放課後を利用し、自己の立候補者としての主張を唱えたのである。

 確かに、その年の会長の立候補者は、岩田次郎と渋谷三亀夫の二人だったように記憶している。二人共、児童、生徒達の中にはそれなりの人気があり、名も知られていたので、接戦となったようであった。結果的には、わずかの差で岩田次郎が当選し、岩田は茂木の築いた新体制を受け継ぎ、更にその内容を発展させていったのであった。

 昭和三十年(一九五五年)の二学期に入ると、間もなく、東京教育大学付属盲学校を中心にして起こった点字教科書問題には、岩田を会長とする埼盲生徒会はこの問題を積極的に取り上げ、その促進運動に進んで参加していった。

 翌三一年(一九五六年)の生徒会役員選挙の際には、評議委員会からの意見により、またまた立ち合い演説会を行うことになった。その年は後述するが、既に生徒会が小学部の児童会と、中、高部の生徒会に分離した後だったので、立ち合い演説会場は幾分狭かったが、一七号教室に椅子を持ち込み、鮨詰めの中で行われたのである。

 会長に立候補したのは、青木五郎と金子作次郎の二人だった。二人の演説の内容については記憶していないが、なかなか迫力に富んだものであった。

 副会長の立候補者は、高野宗吉と斉藤誠寿《よしじゅ》の二人であり、総務部長は和久越子《わくえつこ》が立候補していた。小学部が分離したので、生徒会の規約も変わり、その年から会計の総務副部長は、会長、副会長、総務部長の三役の者が協議して選ぶことになった。

 その日、行なった中村文夫の応援演説は、会長青木五郎、副会長斉藤義次、総務部長和久越子の三人をひとまとめにして、三人の協調性を生徒会活動に生かすことを主張した。弁論クラブのキャップの演説だけあってさすがにそつがなく、集まっていた会員に強く浸透したようであった。

 選挙の結果は、会長青木五郎、副会長高野宗吉、総務部長和久越子が選ばれたが、今もなお忘れることのできない埼盲生徒会の選挙に関する懐かしい思い出の一コマである。

生徒会分離問題

 生徒会の選挙の変遷については前回に記したが、生徒会の分離問題についても一応記しておくべきことと思ったので、ここに項を改めて記すことにした。

 昭和二九年(一九五四年)度の生徒会会長の茂木幹央がその生徒会の活動の中で、教職員主導型の学芸会を、生徒会との共催の文化祭に発展、模様替えしたことは、大きな業績であった。しかし、茂木は一年間生徒会を運営してきてもう一段階大きな、且つ活動的な生徒会にするには、小学部の児童とともに組織していたのでは、どうしても小学部の児童に無理を強いることになる。また協調性を守るということで、中高部の生徒たちの思い切った活動がなし得ない、という両方に不備は点を生ぜしめるので、思いきって小学部を分離し、小学部には児童会を作ってもらおうと考えたのであった。

 茂木は、このことについて既に会長就任後、半年ほど経った頃から真剣に考え、岩田や渋谷それに私などにも時々問題提起をしていたのである。茂木は、

 「埼玉県立盲学校の生徒会も、東京教育大学付属盲学校や、都立文京盲学校のような高校生らしい生徒会の運営を行なっていくには、僕達の学校ではせめて中学部以上の生徒によって組織する生徒会でなければ難しい。だから、それには思いきって小学部と分離し、小学部には別に児童会を組織してもらい、僕達は新しい生徒会を組織しなければならない。そうすることが小学部の児童達にとっても、いつも先輩の上学年生のために引き回されず、小学部の児童らしい独自の活動ができて却っていいと思う」

と、言っていたのであった。

 その頃、政府の反動的な方針や政策に、鋭い風刺を向けて攻撃した三木鶏郎の『日曜娯楽版』がラジオで放送されていた。その後タイトルが『ユーモア劇場』と変わり、NHKの人気番組となっていたが、二九年(一九五四年)の六月十三日付で、突然放送中止となった。

 その後、同年七月一日に防衛庁設置法が施行され、自衛隊に関係する各法も公布され、自衛隊の前身の保安隊を陸、海、空の三軍方式に改則、拡大した。一方、六月頃より時折日本に台風が繰り返し襲来していたが、九月の二六日に襲来した台風十五号は、青函連絡船洞爺丸を座礁転覆させ、死者・行方不明一、一五五人という大惨事を発生させた。また、その年の暮れ一二月七日に、吉田内閣は総辞職して吉田茂は第一線から退陣、同月十日に第一次鳩山内閣が成立した。

 茂木の生徒会長として提案した生徒会分離案は、生徒会顧問の若栗、渡辺、両教諭の賛成が得られず、やむなく生徒会顧問と生徒会役員との間に、対決ムードが盛り上がったのであった。そして最後には、

 「若栗先生は僕達の生徒会の分離を誤解しておられるようですが、僕達は決して小学部をのけものにする訳ではありません。小学部は小学部なりの特性を十分に生かしてもらうことにして、一方では僕達中高部の生徒会活動を、更に大きなものにしていこうという意見をまとめたのです。それなのに何故先生は、生徒の立場や生徒の希望を理解しようとしないで、押えつけようとするのですか。何だか先生は単に小学部の渡辺先生にお気を遣って、いろいろ言っているだけではありませんか。先生らしくないそんな意見は、とても生徒会を育てようという意見とは思えません。小学部の児童達だって、上学年生の言うことばかり聞いているんではつまらないでしょう。だから僕達は、先生に分離をすることを許可してもらいたいとお願いしているのです」

と、確かこれは、私と茂木とで続けて申し述べた意見だったが、その時、私も茂木も、かなり声を荒らげて言った。

すると若栗教諭は、安喰氏の言によると、いきなりハンカチを取り出して目にあてると、

 「君達は僕がそんな気持ちで、君達と関わり合っていると思っているのか?」

と、声を詰まらせながらそう言い、後は嗚咽をもらしてしまったようだ。ところがそれにもかかわらず、私が何か言おうとして立ち上がると、安喰氏が、

 「おい、大嶋よせ。これ以上言ったら失礼だぞ。若栗先生は泣いておられるじゃないか」

と、小声で囁き、素早く私の体を押さえた。その会は十七号教室で行なわれ、その席には小学部の顧問の渡辺教諭と、四人ほどの小学部の役員らしい児童達が参加していた。渡辺教諭はその時若栗教諭の言葉を耳にすると、

 「若栗先生、何もそんなお気遣いはいりませんよ。生徒達がそういうのでしたら私もそのように考えますよ」

と幾分怒ったような口調でぶっきらぼうに言った。

 この渡辺教諭の思いもよらない発言は、若栗教諭を大いに驚かしたらしく、やや怒りのこもったような口調で、

 「それは渡辺先生、どういうことですか?今になってそんな意見を言われるなんて僕には心外に堪えませんね」

と言い、一時、顧問同志の間に気まずい雰囲気が流れたようであった。しかし、そうした対決ムードの不穏な状態も、先輩の新井勘七氏の意見ととりなしがあってどうにか治まり、結局は生徒会と小学部の児童会とは、分離することになったのである。

 若栗教諭は早稲田大学の文学部哲学科を卒業し、更に大学院の博士課程まで進んだ後、埼玉盲の社会科の教諭となった弱視の教師だけに、盲学校の生徒会活動の指導には深く心を配り特に熱心なようだった。熱心なるがゆえについ私達の前で涙したのであったのだろうが、私達はその熱心さにいつの間にか甘えてしまい、またつい若気の至らなさも手伝ってか、若栗教諭に向かって暴言を吐いてしまったのである。しかしその時は、少しも失礼な暴言とは思わなかったので、そのように発言もし振舞ったのであろう。

 そのような経緯があって、新しい形態で組織した生徒会は、その後若栗教諭の指導を仰ぎながら規約を改正し、年度末に臨時の生徒会を開き、承認してもらったのである。前文の後の方で記した、生徒会役員の選挙の項に対してはこの時承認され、全員で投票する役員は、会長、副会長、総務部長の三役のみに変更したのであった。

全点協運動興る

 「せめて一揃いの点字教科書を」という願いは、恐らく全盲の盲学校生徒の誰でもが、心の内にそんな希望を持っていたに違いない。それは活字教科書から見れば十倍に近い定価で、それも各教科全部が揃っていない高価な点字教科書を購入して、授業を受けなければならない現実であったからである。

 しかし、昭和三十年(一九五五年)の戦後十年になろうという年になっても、文部省は日本の障害児教育に対して、教科書問題すら検討してくれていなかったのである。実際には文部省の初等中等教育局の椅子に座っている教育官僚達は、どれだけ障害児教育の現状について知り得ていたか?恐らくそれは一年か二年に一度提出される紙面上でのデータによる数字で、はるかに想像していただけではなかろうか、と思うのはあながち私一人ではないであろう。それほど、私達は教科書には困っていた。

 そうした盲学校生徒の強い願望を思いきって形の上で表そうと、東京教育大学付属盲学校(現在の筑波大学付属盲学校)の高等部の生徒達の中から、

 「活字の教科書は選ぶほど出版されているのに、どうして点字の教科書を作ってくれないのか?」

という疑問と、社会的には同じ身分でありながら、自分達視覚障害を持つ学生だけが何故差別されるのか、という平等性への矛盾が怒りとなって、とうとうその年の秋十月に噴出したのであった。

 東京教育大学付属盲学校の長谷川貞夫氏、長谷川義男氏、竹村実氏、渡辺勇喜三《ゆきぞう》氏の各氏が中心となってついに十月一目、二日の両日、東京教育大学付属盲学校の講堂で「全国盲学校生徒・点字教科書問題・改善促進協議会」(略して全点協という)を開催し、全国から二五校の盲学校生徒の代表者が集まり、熱意溢れる一時間十五分にわたる長谷川貞夫氏の、この会発足の趣旨説明と現状分析、そして決意表明があった。

 その場での討論では、今後の活動に向けての話し合いがなされ、更に活動を具体的に進めるための仕事分担を協議する分科会が開かれたのである。しかし、このように書いている私は、残念ながら当日は足関節捻挫で床についていたので、この歴史的な決起集会に参加することができなかったのである。集会や分科会の模様は、その当時、ラジオ東京や日本放送などでダイジェスト版的な実況録音として放送されたり、また埼盲より会場へ派遣した二人の代表者岩田次郎、加藤忠男の報告によって知り得たのである。

参加者の一人であった加藤は、その感想を、

 「とにかく熱気のこもった満足できる集会でした。会の司会をされていた付属盲の生徒会長である渡辺勇喜三さんの、祝電の点字を読む素早さと司会の手際の良さにびっくりしました。また長谷川貞夫さんの、一時間十五分にわたる充実した内容の迫力ある話には感心させられました。更に、分科会で副委員長をさせられたのには物凄く緊張し、身の縮むような思いがしましたが、参加してかけがえのない良い勉強をさせてもらいました」

と、真面目な口調で述べていた。

 決起集会が滞りなく終了してから二週間ほど経った頃、点字教科書の大幅増冊に関する要請文を作成する会議を、埼玉、熊谷盲学校の生徒の代表者によって、埼玉盲の十七号教室で行なった。

 その時、埼玉盲からは決起集会に参加した岩田、加藤の二人の他、最上級生の安喰氏と、弁論クラブの部長で文才家の中村と私の五人が参加し、熊谷盲からは決起集会に参加した長岡利行《としゆき》氏と、その他二、三人の生徒が参加していた。

 会議は加藤の司会で進められ、まず埼玉・熊谷両盲学校で作成した要請文を読みあげ、その中から主張せんとする共通点を拾い上げ、それを検討した。次に、拾い上げた共通点の内容をどのように表現したら適切であるかについて、文を読みあげながら討論したのである。関係当局へ提出するための要請文の作成ということでもあったので、お互い真剣であった。しかし、討論していく中で文の内容の観点や表現の方法の全ての面において、埼玉盲から提案した要請文の方が、客観的にみて優れている箇所が多かったので、自然、埼玉盲の提案した要請文の内容や表現について、更に検討を深める討論になったのであった。このとき熊谷盲の長岡利行氏は、たまりかねて、時折重苦しい声で、

 「熊谷盲の意見も取り入れて下さい」

と、言っていたが、共通点を拾い上げたのであるから当然、熊谷盲の意見も取り入れられたことになるのであるが、ただ表現法になると熊谷盲の要請文に多少難点があったので、それを討論の結果で得られた表現法に変えただけのことであった。

 いろいろあったが、結果的には素晴らしい要請文が作られたのであった。

 この全点協運動は全国的に拡大され、署名やマスコミを通じてのアピールが繰り返され、「国立点字出版所の設立」という要求を中心に固め、他方面に猛烈な勢いで働きかけたのである。盲学校の生徒達のそうした真面目な運動は、大学生や一般のサラリーマン、その他多くのボランティアの協力を生み出し、総計十八万九千五百名の署名を集め、国会へ提出したのである。その感動的な地道な運動が功を奏したのか、翌昭和三一年(一九五六年)になると、ついに文部省は盲学校に学ぶ児童、生徒に対し、現状の実態を遅まきながら知り得たようで、その年の四月から(就学省令法)の適用が高等部まで延長し、点字教科書の国家保障の道が開けたのである。

 実際にはその当時、付属盲での決起大会に参加したが、埼玉盲代表者としてこの問題に直接関わっていなかった私は、その後それに関わっていた多くの人々と出会い、友人となることができ、また全視協活動を進めていく中で、この全点協運動がいかに全国の盲学校生徒にとって重要なものであったかを、改めて知らされたのであった。

 かつて私が願望して詠んだ、  点字読む指に冷たい予算措置ぬくもる国の施策夢見むの意図が、一部実現されたようで、心から嬉しく思ったものである。

荻窪教諭との別れ

 私が埼玉県立盲学校の高等部本科按摩鍼灸科へ進んだ時、普通教科の中の理科と英語と社会の三科目を受け持っていた「ごぼう」というニックネームの付いていた荻窪教諭との出会いは、私にある種の発展性を生み出す刺激となった。教諭は、どの学科でも私達に、「考えること」と「考えたらそのことを書き留めておくこと」を教えてくれた。あるとき教諭は、受験生への面接の中で理科の問題について、

 「水について答えてみなさい」

と、質問したそうであった。すると、その受験生は、

 「じゃあ、常識的な答えでいいですか」

と、言ったのに対し、すぐにズバリと、

 「科学は常識で答えるものではない。水について簡単でもいいから、科学的に答えなければ答えとは言えないだろう」

と、切り込んできたので、受験生は大いに驚き、一瞬涙ぐんでしまったという話を先輩から聞かされていた。

 だから、荻窪教諭の授業は三科目とも緊張感に満ちた姿勢で耳を傾けていた。その荻窪教諭が理科四時間、社会三時間、英語三時間の計十時間の中で、時折この三教科とは関係のなさそうな「科学と人間性」とか「弁証法哲学入門」。また「自然科学史からみた現代」ほかに「教育の機会均等と特殊教育について」などという話を、二時間ぶっ通しの授業として講義することがあった。そして、黒板にやたらと横文字や専門用語を書きまくるので、最初のうちはチンプンカンプンだった。しかし、一年も付き合っているうちに、ほんのわずかずつ教諭が何を言おうとしているのかが分かるようになってきた。そこで私達、特に舎生の男子四人は、よく教諭が宿直の時、自習時間後宿直室へ行き、更に気楽な形ではあったが課外の講義を受けたり、雑談に花を咲かせたりした。

 私達は最初はこの高等師範出の、どちらかと言えばうるさ型を苦手としていたが、やがて事の真実を愛する科学的精神の持ち主だということを知ってからは、次第に教諭を慕うようになっていったのである。

 ところが、突然、昭和二八年(一九五三年)の十月末日をもって埼玉県立盲学校を去り、教諭の母校である県立東松山高校へ転勤する、という話が聞こえてきたのだった。私達はそれを耳にした時まさに青天の霹靂《へきれき》といった思いを感じたのだった。しかし、教諭の転勤については私達にはどうすることもできぬので、すぐにみんなで相談し、高等部の有志で十月末の土曜日の午後、荻窪教諭を招待して送別会を開くようにしたのである。

 当日、校長のところへ茶道具を借用することで許可を取りに行った時、許可はしてくれたが校長に一言、

 「何をするのか知らんが、余り過激な思想を受け継いで、先生方に迷惑をかけるなよ」

と言われた。確かに荻窪教諭は、その当時何となく校内に流れていた、適当主義に批判的ではあったが、決して過激的な思想家ではなかったと、私は今でも思っている。

 その日は絶好の秋日和だった。参加を予定していた高等部の生徒有志は、一人の不参加者もなく、十七号教室に用意された送別会場へ集合した。南向きの窓からは暖かな午後の日が室内へ明るく差し込み、室内に楽しい熱気のようなものを醸し出してくれていた。生徒は総勢十五名だったが、皆、司会を仰《おお》せつかった私の進行に従って、最後まで参加していてくれた。

 会はまず茂木が開会の挨拶をして、安喰氏が代表で送別の辞を述べ、岩田が熨斗《のし》紙に包まれた記念品を荻窪教諭に手渡したのだった。十七号教室の中に拍手が潮《うしお》のように鳴り響いた。拍手が静まるのを待って、私が、

 「荻窪先生、お別れに何かお話しをお願いします」

と言うと、教諭はゆっくりと立ち上がって、

 「今日は私のことでこんな送別の会を開いてくれてありがとう」

と言い、一息つくと最後の話を始めた。それは珍しく多少皮肉を交えた話だった。

 「私は昭和二五年の四月以来、ずっとこの学校で授業をしてきで感じたことは、この学校の多くの教員や寮母達は、確かに君達には優しく親切だった。しかし、いつでも君達を盲人として見ているだけで、真の意味で人間として見ていたかどうか、私は今でも疑問に思っている」

 「だから、かわいい盲人は好ましいが、革新的な生き方に目覚めた盲人は、異常な人物として見られてしまうことがあるように思えてならなかった。中世の世界のように宗教家が権力を振い、保守的な考え方が尊重され、『女子と小人は養い難《がた》し』なんていう言葉が、当たり前のように使われている教員集団のこの学校では、学問の発展を目標とする学園にするにはすぐには難しいと思う。君達は視覚障害者であることを自覚し、そしてまた人間であることをしっかり認識し、これからの毎日を送ってほしい」

 「大学を出ていながら勉強することの嫌いな教師なんかの言うことを、まともに聞く必要はないと思う。いろいろな事情で、学期半ばで私はこの学校を去り他校へ転勤して行くが、君達のことは一生忘れることはないだろう。お互い健康でありさえすれば、またどこかで出会うこともあるだろう。もし出会ったら旧交をあたためようではないか。それにしても、まず本をしっかり読み、自分の思想なり考え方をしっかり持って生きて行ってほしい。本当に今日はありがとう」

 荻窪教諭の話の後は、一人一人思い出や感想を述べ、その後は歌になった。何人かの歌の後、誰かに指名されたので教諭が立ち上がって、

 「じゃあ、西郷隆盛の唄を歌おう」

と言い、めずらしく声を張り上げて、

「西郷隆盛 話せる男 よいよい お国のためなら死んでもよいと やーっとせー やっこらさーのせー」

 「ドイツのゲーテは話せる男 恋のためなら死んでもよいと やーっとせー やっこらさーのせー」

と手拍子を打ちながら朗々と歌ったのである。それは実に良い送別会であった。

流れる歌と新たな友人たち

 埼玉県立盲学校の生徒としての六年間の学生生活の中では、いろいろな思い出がある。学校の校舎内で放課後、通学生の仲間達と、あるいは寄宿舎で自習時間後、舎生の仲間達とごく自然に特に声を張り上げることもなく歌って、楽しい余暇を過ごしていた。その当時よく知られていたラジオ歌謡や歌謡曲とか、あるいは流行歌と言われていた歌のことが思い出されてくる。

 だが、私をそんなに懐かしがらせる歌も、盲学校へ入学し寄宿舎生活を始めた頃は、もう今まで家に居た時のように、のんきに歌っていたラジオ歌謡や流行歌をここでは歌えないのだな、と真面目な気持ちでそう一人呟きながら、いささか憂うつな気分で過ごしていた。しかし、一週間ほど経ったある日、下校して寄宿舎へ帰って来た私は、思いがけなくも小学部の二人の男児が声張り上げて、その当時宴会などの酒席でよく歌われていた「トンコ節」や「トコトン節」あるいは「ヤットン節」などというちょっと学校の寄宿舎などでは歌えない流行歌を、何の屈託もなく歌っているのを耳にし、大いに驚かされた。そこで私は、友人の青木に、

 「あんな流行歌を寄宿舎で歌っても叱られないのか」

そう問わずにはいられなかった。ところが青木は私のそんな問いに一応真面目な口調で、

 「自習時間中に歌ったり、舎監がいる時に歌っていたりすれば叱られるが、それ以外は他人に迷惑をかけない程度の声ならば歌っても大丈夫だよ。ハーモニカでそうした類《たぐ》いの曲を吹いたって叱られないよ。寮母先生も洗濯をしながら時折小声で歌っていることがあるので、特にうるさいことは言わないから大丈夫」

と答えてくれたのだった。私は見ることが出来なかったが、青木は私のそんな問いににやにやしながら答えていたに違いない。青木からはその後も、寄宿舎生活におけるいろいろな過ごし方を教えてもらうことが多かった。しかし、その青木は自分自身では、決して声を張り上げて流行歌を歌うことはなかったが、時折土曜日の放課後、私を誘って校舎内へ残り、小学部の教室にあった大型のオルガンを静かな音で弾いて聞かせてくれた。そんな時、青木はきれいな和音を織り交ぜながら、ラジオ歌謡や流行歌を器用に演奏していたのである。

 その頃、青木が弾いてくれたのは、伊藤久男の歌っていた「あざみの歌」や「山のけむり」「たそがれの夢」などのラジオ歌謡である。また、美空ひばりの「悲しき口笛」や「越後獅子の歌」といった流行歌も、声を揃えて歌ったりした。

 盲学校へ入学して半年ほど経って、すっかり毎日の学習や生活にも慣れてくると、私は本来の性格がむき出しになり、仲間達とラジオ歌謡や流行歌を平気で歌うようになった。寄宿舎で同室の安喰氏や岩田や大滝も声を揃えてよく歌っていた。藤山一郎の歌った「夢淡き東京」「青い山脈」「長崎の鐘」「丘は花ざかり」。その中でも「青い山脈」は、現在、戦後歌われた歌謡曲の中で、人気五十傑の第一位として、最も多くの人々に親しまれた曲になっている。小畑実の「長崎のザボン売り」「バラを召しませ」「高原の駅よさようなら」、伊藤久男の「シベリヤエレジー」「イヨマンテの夜」、竹山逸郎の「異国の丘」など。また最近亡くなった近江俊郎は「山小屋の灯」や「湯の町エレジー」で甘くやさしいロマンを歌いあげた。

 私自身は特に歌わなかったが、よくラジオやレコードで聞いたものに、神楽坂はん子の歌った「ゲイシャワルツ」「見ないで頂戴お月さま」「こんなベッピン見たことない」などというお座敷ソングが挙げられる。

 昭和二八年(一九五三年)頃、中学部一年に編入した和久越子《わくえつこ》は大の小畑実ファンで、彼の歌をよく甲高い声で歌っていた。彼女は弱視の女生徒で、性格が明るく親切だったので、男子生徒の中でたちまち人気者になった。私も彼女にはいろいろ世話になった。

 編入といえば、同じ年に中学部二年に入った中村好文《よしふみ》は気のいい、おとなしい男で、中村文夫のクラスで年長だったので、誰言うとなく「兄貴《あにき》」というニックネームで呼ばれていた。その彼がよく青木光一の「元気でねさようなら」を歌っていたのを覚えている。編入者は、更に私の記憶では翌二九年(一九五四年)に、中学部三年に島崎秀五郎、村上テル子が、三一年(一九五六年)には中学部三年に飯塚敏夫が入学した。三人共おとなしく控えめな生徒だった。

 その当時、私は岡本敦郎《あつお》の「白い花の咲く頃」「チャペルの鐘」「高原列車は行く」、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」「青春のパラダイス」「東京の空青い空」というような明るい青春の歌を歌い、また霧島昇の「ギター月夜」「石狩エレジー」「湖畔のギター」のようなエレジーなども好んで歌っていた。これらの歌の歌詞は、以前に演劇クラブの放送劇『小さな願い』を演じた時、友人になった金子なよ子から教えてもらっていた。

 昭和二八年(一九五三年)頃、中学部一年に宇田川真《うだがわまこと》、三一年(一九五六年)に金子正次郎《しょうじろう》が入学し、三十年(一九五五年)に山口雄士《ゆうじ》が中学部三年に編入してきた。宇田川は入学当時は丸坊主のまだかわいい小柄な弱視少年だったが、野球クラブに入り三年間ほど経つと素質もあったのか背も伸び、たちまち優秀なレギュラー選手に成長していった。

 金子も入学当時やはりかわいい小柄な弱視少年だったが、ちょっとひょうきんなところのある明るい愛嬌者で、時折逆立ち歩きなどをしてみせていた。ところが、この彼が文化部で集めた作文の中に、広大なる宇宙へ限りなき少年の夢を描いた『僕の夢』というタイトルの一文を提出し、その夢と想像の豊かさは、私たち係の者や顧問を大いに感動させてくれた。

 また、山口は、確か一学期の中程に編入してきたと記憶しているが、彼もなかなか元気な賑やかな少年で、その年の秋に行なった文化祭には、白石教頭の書いた『青年杉山和一《わいち》』という放送劇に少年役として出演した。

 昭和三十年(一九五五年)には、埼玉県立盲学校の存在を知ってか、ニューフェイスがぞくぞくと入学してきた。普通の中学校をその年の春卒業した斉藤誠寿《よしじゅ》、宮城寛二《みやぎかんじ》、町島豊乃《まちじまとよの》が、その年の三月に高等部本科一年に入学、埼玉盲の中学部三年を卒業した三木節夫《せつお》が別科の一年に五月の初旬に再び入学してきた。四人は揃って十五歳の元気いっぱいの少年、少女だった。岩内節子は埼大付属中学を卒業後、二年間の通院生活の後、また鯨井一正《くじらいかずまさ》は県立熊谷商業高校を卒業し、一年間社会人として職に就いた後退職し、それぞれこの年本科一年に入学してきたのだった。

 翌三一年になると、本科一年に福島初治《はつじ》と清水元《はじめ》などが入学して、埼玉県立盲学校も生徒の年齢層が、次第に学齢児並みに近づいてきたのである。その頃になると、ラジオから流れる流行歌も少しずつ様相が変わってきた。歌舞伎ソングの「お富さん」が春日八郎を人気歌手に祭り上げ、更に「雨ふる街角」「別れの一本杉」をヒットさせた。また、民謡調の高音の魅力をいかんなく発揮した三橋美智也が「女船頭歌」で知られ、更に「リンゴ村から」「哀愁列車」で人気を不動のものとした。

 一方、島倉千代子は「この世の花」でデビューし、「りんどう峠」「東京の人よさようなら」で純情可憐な歌手としてその名が全国に知れ渡った。島倉は舞台出演のとき涙を流しながら歌うので、聴衆をより深く感動させたようであった。小坂一也の登場で、ロカビリーソングが日本中に爆発的に流行し、青年達の心を大いに沸き立たせた。異色の歌としてその当時テレビやラジオで放映、放送されていた伴淳三郎主演の『伴淳の二等兵物語』の「粋な上等兵は思いもよらぬ」という一節で始まる主題歌は、たちまち日本中に広がり、宴会などでもよく歌われていた。私は寄宿舎の浴室の中で入浴中、斉藤、宮城達から教えてもらったので忘れられない。

校外臨床実習

 昭和二七年(一九五二年)に高等部本科按摩鍼灸科に進学した私は、実技の教科でかなり苦心と努力を要する時間があった。本科三年になった時には、来春に控えた按摩、マッサージ師(二九年現在では指圧はまだ法律化されてはいなかった)の検定試験の受験のために、必要以上に緊張せざるを得なかった。

 そんなわけで、実技に弱い私は毎日実技の授業になると気の重くなることが多かった。だから、暇を見つけては友人や先輩の体を借りて、按摩やマッサージや鍼の練習を続けていった。

 その年即ち二九年(一九五四年)の夏、一学期の期末試験終了後、初めて十五、十六教室に十六台のベッドを用意し、校内臨床治療実習という名目で、通常の外来臨床治療室の患者とは別に、地域社会にちらしや回覧を出して知らせるなどして多くの患者を集め、一日ではあったが、思いっきり治療実習に励む日を設けたことがあった。参加した生徒は高等部本科三年と別科二年及び専攻科一、二年生だった。

 白石教頭や恩田、金子両教師が患者の状態を診察し、鍼灸治療を要する患者は専攻科一、二年の生徒達に、按摩、マッサージを主とする患者は本科三年と別科二年の生徒達に回し、津末《つすえ》教諭が適宜連絡、指導をしてくれていた。

 その日は夏空のよく晴れた暑い目だった。開け放された教室や廊下を通って吹いてくる涼風が、汗ばんだ体に心地良かった。私は汗ばんだ白衣を脱ぎ捨てたい気持ちであった。周囲の仲間達も同様らしく、一人患者の治療を済ませる度に、

 「暑いなあ。こりゃあくたびれるなあ」

 「按摩の修行は大変だなあ」

 「実際に患者を治療してみると精神的に疲れるなあ」

などと言い、顔の汗を拭いたり、水を飲みに行ったりした。

 その日、私は生まれて初めて四人の患者を治療した。いずれも全身按摩だったが、どうにかやってのけた。私は体が小柄で細く、女性並みだったので、仲間達が心を配ってくれたらしく四人であったのだが、仲間達は皆五人ずつ患者を治療していたようだった。

 最初の患者は、体格の良い五十歳代の農業に従事している男性だった。初体験だったので私は上がり気味だった。私としては、精一杯の力を出して患者の肩、首、腕、足、腰と順序正しく揉んでいったのであるが、その患者にはちょうど良い程度の強さで揉まれている感じで、

 「ああ、いい気持ちだ。目の前がはっきりしてきた。出るならもっと力を入れてもいいよ」

と、嬉しそうに頷いていた。

 もっと力をなんて、これは大変だ、私はその時心の内でそう思い、いささか焦り更に力を加えた。息が弾み目から汗が出たような感じがした。シャツの下に大量の汗が流れた。

 「体の小柄な割に力があるね。なかなかいい気持ちだね」

と、患者にそう褒められたが、特に嬉しいとは思わなかった。実技の下手な自分でも、そう文句も言われずに一日終わることができた時は、ほっとした思いでいっぱいであった。

 二学期に入っても、最初の二週間の中で二日間ほど、今度は川島と山田の二つの地区に、校外臨床治療実習として出張治療に出向いて行った。相変わらず陽光は厳しかったが、既に風は秋風に変わっていた。しかし、公民館や寺の本堂は、窓がいっぱい開け放されていても何故か暑かった。各々が持ってきた毛布と枕を決められた所定の位置に用意し、患者を待ち受けた。少しずつ治療実習にも慣れてきたのか、息が弾むようなことはなくなった。二日間共、午前中、全身按摩の患者を二人治療した。

 昼食休憩の時、氷水やきゅうりの漬物やまんじゅうなどが出された。だがその時、折り悪しく胃腸を壊し下痢をしていた私は、寄宿舎で持たせてくれた握り飯も食べられず、「甘食」と呼ばれたパンを弁当としてとらなければならなかったので、出されたそれらの食べ物や氷水を、残念ながら口にすることができなかった。その時、偶然ラジオからコロンビアローズと美空ひばりの歌がそれぞれ三曲ずつ流れていた。歌は、コロンビアローズの「リンゴの花は咲いたけど」「娘十九はまだ純情よ」「渡り鳥いつ帰る」と美空ひばりの「私は街の子」「港町十三番地」「娘船頭さん」だった。何故かわからないが、それらの歌を聞いていると不思議に疲れが癒《いや》され、午後の実習への意欲が沸いてきた。

 専攻科二年の新井勘七、新井宗作、藤間善造《ふじまぜんぞう》の三氏は、校内で連日患者を治療し、経験を積んでいることもあってか、患者に対する接し方や治療の手順なども余裕を見せ、治療師としての貫禄を見せていた。私はそうした先輩三氏を眺めて

 「自分もあのような落ち着いた立派な態度で患者の治療ができるよう、早くそうなりたいものだ」

 と、心から思ったものであった。校外治療実習はその年ばかりでなく、翌年も、その翌年も一学期末と二学期の初めに続けられた。

 昭和三十年(一九五五年)は社会的にもいろいろな動きのあった年だった。まず、五月に東京都下の砂川町で、立川基地拡張反対総決起大会が開かれ、その後これは北富士、横田、新潟、立川などの基地の反対闘争に続いていった。しかし、政府は砂川基地強制測量実地を承認し、反対グループと警官隊とが衝突するという結果となった。この衝突は十一月にかけて何度も繰り返されていた。

 また、六月には鳩山の民主党と緒方の自由党が保守合同で意見の一致を見、十一月に両党が合流し、自由民主党を結成した。

 一方、その年の八月六日には、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催されたのであった。

楽しかった修学旅行

 私は埼玉県立盲学校に在学中、高等部本科三年と専攻科二年の卒業学年の時の計二回、修学旅行を経験した。しかし、最初の経験という強い印象もあってか、本科三年の時の旅行の方が楽しく面白かったので、ここではその時の旅行談を物語ることにしよう。

 初めての経験ということもあって、参加者を学校側としては、二桁の人数にしたいということもあったようで、協議の結果、結局は本科三年、別科二年、専攻科一、二年の生徒が参加することになった。だが、残念なことに不参加者が四人いたので、生徒は十二人参加することになった。参加者の中に、特別に例外として卒業生の塩野祐作氏が加わった。生徒の他に保護者として、塩野氏の父君と金子ユキさんの母君の二人が参加し、引率の教職員として金子教諭、横山教諭、小室勝男《こむろかつお》医師、それに福岡事務助手の、確かこの四人が参加したと記憶している。

 九月の末近い上野駅発十時頃の夜行普通列車に、参加者全員が乗り込み、首尾よく席を占めることができた。生徒達はプラットホームでお茶を購入し、持ってきた弁当を開いた。寄宿舎の生徒の弁当は稲荷ずしだった。二食分だったのか、かなりの量があった。ところが、私はその渡された弁当の袋を風呂敷に包み、カバンの外に吊しておいたのだが、池袋の混雑した陸橋を急ぎ足で歩いているうちに風呂敷が解《ほど》けたらしく、いつの間にかなくなっていた。そんな訳で、その夜は友人に弁当を少しずつ分けてもらって口にし、飢えを凌《しの》いだのである。

 初めての夜汽車の経験は、生徒達を興奮させ、みんななかなか寝つかれなかった。茂木も私もつい能弁になり、安喰氏から、

 「もっと小声で話せよ」

と、注意されたほどだった。しかし、列車が福島県に入った頃、どうにか眠りに落ちたようで、翌朝目覚めたのは常磐線の原ノ町駅の手前であった。停車した鹿島の駅でお茶を購入し、弁当の朝食をとった。だが、私は弁当はなかったので、またまた友人達のお恵みに預かった。列車が常磐線と東北本線との合流点の岩沼駅を過ぎ、仙台に着いたのは八時半頃だった。プラットホームに降りると、蒸気機関車のシューシューという蒸気を吹き出す音が前の方から聞こえてきた。

 一同は仙台駅から仙石線に乗り換え、松島海岸駅まで行った。下車すると、涼しいというよりはむしろ秋冷といった感じの風が海の方から吹いていた。さすがに東北地方だなと実感した。見学予定の場所として、第一番に挙げられていた瑞巖寺《ずいがんじ》の境内に入って行った。五十がらみのガイドのおじさんが、東北訛りのアクセントの強い標準語でいろいろ説明してくれた。しゃがれた声だったが、どことなく温かみが感じられた。石で造られた立看板に、芭蕉の奥の細道の一節が記されであったらしく、ガイドのおじさんはその前に立つと、そこに書かれてある奥の細道の一節を、言い慣れているのか落ち着いた声で朗々と読み上げたのだった。ところが、聞いていた仲間の一人が、

 「今読んだ奥の細道の古文の一節を、現代文に訳してみたらどんな風になるのか聞かせて下さい」

と、突然そう言ったのである。するとガイドのおじさんは、安喰氏の言によると、驚いて振り向くとむっとした顔になり、何も答えずさっさと次の説明場所へ歩いて行ったということだった。

 「おい、あんな質問をしてはだめだよ。ガイドは唯そこだけの文句を丸暗記して覚え、言っているだけだから、その文字が読めたり、意味が分かっている訳ではないんだよ」

たまりかねたのか、横山教諭がそっと私達の側に来て小声でたしなめた。しっかりとは記憶していないが、瑞巖寺の中もざっと見学したようで、私は部屋の畳を廊下から手に触れたことを覚えている。だが何故か政宗記念館の見学は全く記憶していないから、あるいはもしかしたら政宗記念館そのものが、きちんとまだ建てられていなかったのかも知れない。瑞巖寺で一時間以上の時間を要し、それから松島海岸を歩いた。空は薄曇りのようで、薄い陽光が差しかけていた。

 「なかなか素晴らしい景色だ」

横山教諭が感動したのか、突然叫ぶように言った。更に、

 「ああ、カメラを持って来ればよかった。失敗したなあ」

と、残念そうにそう言っていたのがとても印象的だった。もし見えていたら、私もきっとこの日本三景の一つを、カメラに収めたいと思ったに違いない。

 ザザーッ、ザザーッ、という岸辺に打ち寄せる波の音が、すぐ右手の方から冷たい響きをたたえて聞こえてきた。カモメの声が鋭く頭上で旋回していた。

 松島の港の側で昼食をとった。食堂のメニューにはうな丼のあることが記されていたが、高価であろうと思い、よせば良いのに私は、

 「うな丼はきっと高いからカツ丼か親子丼がいいところだぞ」

と言って、クラスの者と安喰氏にそれらを注文させたのだった。

 ところが、先輩達や付き添いの父母や教職員達は、皆揃ってうな丼を注文したようだった。昼食が終って食堂を出た時、金子教諭が、

 「あのうな丼はなかなかうまかったな。値段もカツ丼より五十円高いだけだったから安かったぞ」

と言ったので、うな丼を食えなかった仲間の中に、ぶつぶつ文句を言う者がいて私はちょっと困ってしまった。

 一同は松島の港から遊覧船で島めぐり見物めいた観光をし、午後二時頃塩釜港に着いた。

それほどの高波ではなかったようであったが、舟は意外に上下に揺れ動き、船室の床が何度も盛り上がったり下ったりしていた。弱視の友人達は、横山教諭や小室医師と一緒に甲板に出て、時々絶景に歓声を上げながら甲板上を歩き回っていた。

 塩釜港に着き、塩竈神社に参拝した。幅の広い石段が長く続いていて、社《やしろ》に到着するまで思ったよりも時間を要して疲れてしまった。

 塩竈神社で土産物を買ったりしたが、山下桂司《けいじ》と福岡事務助手が安産のお守り札を買ったので、みんなに冷やかされていた。帰りは本塩釜駅から仙台まで仙石線で戻り、それから宿泊地の秋保《あきう》温泉に向かった。仙台から秋保温泉まで、秋保電鉄というオンボロ電車で二、三十分揺られて秋保の駅に下車すると、宿の番頭が自転車で出迎えていた。

 宿の屋号は忘れたが、何棟かの建物も、継ぎ足したような民宿風のひなびた宿で、廊下の所々にギシギシと床の鳴るところがあった。秋保の宿に着いた時は既に夕暮れで秋冷を感じた。部屋に着くと、浴衣と丹前とが用意されてあった。九月の末だというのにそのようなものが備えられているとは、さすがに東北の地の宿だなあとしみじみ思った。

 私は間もなく仲間と浴室へ下りて行った。浴室内には硫黄泉独特の臭気が漂い、いかにも温泉らしかった。洗い場も浴槽もタイル張りではなく石造りで、どちらかというと湯治場の温泉のような素朴な印象だった。私と岩田はうっかりその場で洗髪し、頭髪をガサガサに固くしてしまうという大失敗をやってのけたが、何度も湯に浸かったので、お陰で悩まされていた陰金たむしによる皮膚病が、それから間もなく全快してしまった。

 部屋に戻り、浴衣と丹前を身に付け一息ついてから夕食の膳についた。夕食には何品かの料理の他、別に、おそらく教職員達の配慮か、何本かの日本酒の徳利が並んでいたので、夕食の時間はたちまち宴会に変身していった。飲むほどに酔うほどに各々が適宜隠し芸を披露し、大賑わいになった。私は故郷の「秩父音頭」と「相馬盆歌」を歌った。他に記憶しているところでは、小室医師が「豪傑節」、金子教諭が「デカンショ節」、福岡事務助手が「明治一代女」を歌い、塩野氏がハーモニカで「丘を越えて」を吹いて聞かせた。医師も教職員も一緒の宴会だったので、私達生徒は安心して飲み且つ食い且つ歌って騒ぎ、大いに楽しんだ。

 宴会の中で一つ感動したのは、宿の番頭が歌ってくれた当地の民謡の「さんさしぐれ」が実に声に味があって節もうまく、素晴らしい唄であったことだった。

 その夜の夕食兼宴会は、宿の二人の若い女中が歌った「秋保小唄」の賑やかな手拍子に合わせた歌で終了した。

 翌日は、宮城県立盲学校を見学する予定で宿を出発したのだったが、私と岩田は温泉の湯で洗髪した頭髪がボウボウと逆立ち、櫛を入れてもどうすることもできなかったので、羞恥で赤面しながらもそのまま出向いて行った。一同は再び仙台まで出て、宮城県立盲学校を訪問した。

 弱視の友人の話や私の感じた印象をまとめると、学校全体は埼玉盲より敷地も校舎も寄宿舎も幾分広く大きいようだつた。控え室と思われる教室で待っていると、やがて教頭か教務主任のような五十歳位の落ち着いた声の男性教師が、

 「埼玉県立盲学校の皆さん。ご遠方までよくおいでになりました。では、これから私が校内をご案内しましょう」

と言って、先に立って廊下に出た。その男性教師は自分の氏名を最初に名乗っていたが、何故か私は記憶に残っていない。校舎内の各部の部屋の様子は、残念ながらほとんど記憶していないので、治療室や実技室がどのような構造になっていたか説明はできないが、各教室のそれぞれの面積は、埼玉盲のそれよりも幾分広かったように記憶している。一クラスの生徒数もどれも十名前後のようで、学校の生徒全体の総数も、埼玉盲よりは多いようであった。印象に残っていることと言えば、校舎全体ががっしりした、二階建ての木造を主とした建築であったことと、広い講堂兼体育館が、校舎の一隅に立派に設けられていたことであった。この体育館兼講堂の存在は私達にはとても羨ましく思えた。

 ひと通り校内を見学した後、最初の控え室に戻り、代表者らしい数人の高等部本科及び専攻科生と、宿で作ってもらった昼食弁当を食べながら三十分ほど語り合った。何を話題にしたのか記憶していないが、割合楽しく語り合ったことだけは覚えている。午後仙台の駅を出て、どの線に載ってどこを通ったのか残念ながら記憶していないが、とにかく午後の三時半頃飯坂温泉の駅に着いた。その日はその温泉町がお祭りだったようで、電車の中はお祭りに行く見物客で鮨詰めだった。橋を越えて町の中心街へ一同が歩いて行くと、町は大変な賑わいで人々の声がはしゃいでいた。空は風もなく晴れ渡った上天気だったので、道端には露店が立ち並び、景気のいい呼び声があちらこちらで飛んでいた。

 私達の宿は町の中心部に近いところにある、木造の三階建ての大きな宿だったが、二階の部屋へ通された時、一同は思い思いの場所に荷物を置き、何気なく窓から表の通りを見下ろしたのだった。すると突然、

 「神輿様を上から覗いて見るんじゃねぇ。早く顔を引っこめろ。引っこめねえと物をぶつけるぞ。このバカヤロー」

という激しい怒声が下から聞こえ、何かが窓枠に投げつけられたのだった。一同は驚いてすぐに首を引っ込めたのだが、その時、宿の女中らしい娘が階段を駆け上がって来て、

 「叱られますから二階から顔を出さないで下さい」

と、甲高い声で私達を注意した。

 そんなことがあったので、私達はしばらく落ち着かなかったが、やがて出されたお茶を飲み、小さな饅頭をつまむと、ようやく一息つけて落ち着くことができた。

 それから一時間ほど、安喰氏を先頭に、大滝、岩田、茂木などに私も加わって、お祭りで賑わう町へ出向いて行った。が、特に何も買わずに宿へ戻って来ると、新井宗作氏が、

 「知らぬ土地でのお祭り見物は、町が賑やかな上にそろそろ暗くなってきたから危険だと、先生達が心配しておられるから、もう止めた方がいいよ」

と静かな声でなだめるように言った。窓の外には賑やかな祭り囃子と人のわめき騒ぐ声が聞こえていた。

 その夜は、祭り見物ができない代わりに、夕食の時またまた前夜と同様賑やかな宴会になった。夕食の後、階下の浴室へ下りて行き、ゆったりと温泉気分を味わった。この宿の泉質は単純泉のようで、前夜の秋保温泉のような臭気も、またぬるっとした泉水に触れた感じもなかった。私と岩田は単純泉で洗髪し、更湯で念入りに念入りに洗い流し、ようやくボウボウとしたガサガサの髪に櫛を入れることができた。この宿でも三度ばかり温泉に入った。翌朝、金子教諭や安喰氏、大滝、岩田、茂木、山下、渋谷などと一緒に私も温泉に入り、浴槽に浸かりながらみんなで何曲も元気に歌を歌った。その時、私は隣にいるのが大滝だと思い、

 「おい、大滝。もう少しこっちへ寄れ」

と言って、隣の大滝の腕を掴んで引き寄せた。少なくともその時、私はそれが大滝だと思っていたのだった。ところが、その腕は妙になまめかしく柔らかく温かな、女性の腕のような感触だったので、内心ハッとして手を引っ込めてしまった。後でわかったことだが、そこは男子用の浴室だったのに混浴化していて、私の隣にいたのは安喰氏の言によると、若いまだ二十歳《はたち》を少々過ぎた位の顔立ちの、女性だったということであった。

 楽しい修学旅行は、その後飯坂温泉町から福島駅へ出て東北本線に乗り換え、車中で楽しい語らいを続けながら大宮駅まで来て、更に川越線で盲学校のある川越駅まで帰り、車中泊を含めた三泊四日の旅を終えたのであった。ちなみに私が買って帰った土産物は、ゆべしと薄皮饅頭だった。

私の演劇活動

 埼玉県立盲学校の生徒としての私の演劇活動は、既に前述した中三の年度末の学芸会で、演劇クラブ員として演じた放送劇『小さな願い』に始まった。続いて高一の晩秋の頃に行なわれた関東地区盲学校演劇コンクールに、やはり埼玉盲の演劇クラブ員として舞台劇『屋上の狂人』に出演し、演劇活動の面白さ、楽しさに浸るようになっていった。そして、その後も演劇クラブ員として、またクラスの仲間の一人として、あるいは白石教頭に適宜選出された演劇有志の会や、高等部の演劇有志の会の一人として、舞台劇や放送劇などに出演し、学芸会や文化祭を楽しんだのであった。

 そうした演劇活動の思い出を今、回想してみると、どの劇もそれなりの苦心談と意義と面白さ、楽しさがあり、私としてはどうしても点筆を振いたくなってくる。

 これから以下に話す四つほどの演劇活動はその全てを記憶してはいないが、どれも思い出深いものなのである。

 舞台劇『屋上の狂人』の後、私の所属していた演劇クラブは、翌二八年(一九五三年)の一月下旬に県立川越女子高校の講堂で行なわれた、近隣中学・高校演劇発表会に以前一度、盲学校の学芸会で演じた『父帰る』を発表した。その日は晴天ではあったが凍てつくようなつめたい日で、講堂の中も寒かった。私はその劇中で以前、石井盛夫《しげお》が演じていた弟役になって出演したのである。が、かなり上がっていたことを覚えている。

 「盲学校の生徒が行なう舞台劇とはどんなものだろうか?」

というある種の興味と好奇心を持って、舞台を眺めているであろう普通中学や高校の生徒達、あるいは指導教員達の視線を意識していたので、無理もないことではあったが、この時ほど上がったことはなかった。しかし劇そのものは大した失敗もなくスムーズに運び、予定の四十分間を終了することができた。ただ難を言えば、『屋上の狂人』の時と同様、舞台装置とてほとんどない極めて貧弱な劇で、一部分声が広い講堂の隅まで十分通らなかったこともあった。けれど、プロローグにおける池田米子さんの、マイナーの曲で構成されたパックミュージックに、うまく乗ったナレーションが素晴らしかったので、観客を舞台に引き付けることがでた。更に飯島よしが練習のたまものか、劇の中程で見せた母親であり、また妻としての台詞と所作をごく自然に鮮やかにやってのけたこともみのがせない。

それに既にこの劇の経験者である兄役の栗原育夫氏や、妹役の川口暁子の役柄も堂に入っていたので、劇そのものは意外に好評であったようだ。

 翌日の埼玉新聞の朝刊に、盲学校の舞台劇のことが写真入りで載せられていたらしく、その日の夜、母からそのことを知らせる電話がかかってきた。確かに舞台装置はほとんどなく、その面ではその日演じられた他校の劇と比べれば、外見上は極めて貧弱なものだったに違いなかったが、台詞のやりとりや所作については、練習の効果をより以上に発揮できたので、満足できる内容のものであったと思っている。

 次に、演劇クラブではなく、クラスの仲間達と演じた劇『海の見えるホテル』と『お祭り』の二つの劇について思い出を語ってみよう。

 まず、『海の見えるホテル』は、昭和二八年度の学芸会で発表したものだったが、これはクラス全員が皆、自分の役柄をしっかりこなし得た素晴らしいものであった。

 劇の内容は、海の見えるホテルで二十年ぶりに再会した三人のクラスメイトが、それぞれの立場で人生を語り合う心温まる友情物語で、会社の経営者の桐野という人物になった茂木も、ホテルのコック長の三宅になった渋谷も、恵まれない人生を送っている牧村になった私も、その役柄を表現するのに真剣そのものだった。また、桐野と牧村の少年時代を演じた大滝と岩田の海辺で語り合うシーンも、波の音と、誰かが吹いていたハーモニカの曲のバックにうまく乗って、なかなかの演技だったし、ホテルのボーイになった山下や電話交換手兼ウェイトレスになった宗像も、適役で堂に入っていた。ナレーションを担当した内藤のプロローグの語りかけは、横山教諭の作成した語り文のたくみさと、バックミュージックにうまく乗って上々の出来栄えであった。

 確か、朗読劇の形態をとったように記憶しているが、擬音効果もバックミュージックの選定も妙を得ていたので、観客の耳を十二分に引き付けたようであった。

 もう一つの劇『お祭り』は、放送設備とテープレコーダーがある程度整えられた、昭和三十年(一九五五年)に、校内放送の時間に放送劇として発表したものであった。この劇は渋谷三亀夫の書いたシナリオなので、クラスのものが大いに張り切って演じたものである。劇の内容は、ある町のお祭りの日に、視覚障害の姉を持った弟が友人達を呼び、その姉を交えてお祭りのご馳走を食べながら、視覚障害者についていろいろ語り合うというもので、ローカルカラーをにじませたホームドラマ風のものだった。

 作者である渋谷の温かな人間味と、一面、視覚障害者に関する鋭い心理的な洞察と指摘が織り込まれている、なかなかの名作だった。特に、視覚障害を持つ姉役になった宗像、弟役になった岩田、弟の友人の一人になった大滝、母親役になった内藤の演技はぴったりとその役柄を表現していた。だから、父親役になった私も、一生懸命その役柄に挑戦したことを覚えている。擬音効果の役を受け持ってくれた、横山教諭の監督ぶりも冴えていたので、全体としてよくまとまっていたようでなかなかの好評だった。劇の中の折々に祭り囃子が聞こえてきたのも、祭り情緒を十分に表現してくれていた。

 高等部生徒有志で演じた劇『旅人』は、まだ茂木が埼玉盲に在籍していた時だから、昭和二九年(一九五四年)の文化祭で発表したものだったと記憶している。発表は放送劇としてなされたものだが、作者の名は記憶していない。内容は、ある歴史研究家めいた旅人が、五木《いつき》の子守歌の発祥の原点を探り歩くという物語だったようで、いろいろな節まわしの個性的な五木の子守歌が、劇中に登場するものであった。しかし、そのような難しい節まわしで歌うことなどは到底不可能だったので、勝手な怪しい出鱈目な節まわしで歌ったようだ。

 出演者は、語り手と旅人を茂木幹央、五木村の若い娘を宗像怜子、豪農の家の女主人を池田米子さん、そこに雇われている子守りを穂積幸枝《ほずみゆきえ》、しゃがれ声の老人が私の役だった。宗像と穂積と私の三人が、多少の工夫を凝らして幾分節まわしの異なった五木の子守歌、を劇中で歌ったのだが、冷汗ものであった。豪農の家の女主人役の、池田米子さんの役柄の十分表現された台詞と、茂木の巧妙な語り口にどうにか救われた放送劇であった。朗読劇の好きな白石教頭が、

 「マイクなど通さないで、肉声のまま聞かせてもらった方がもっと良かったなあ」

と、その後授業時間にそう言っていたのを覚えている。

 『青年杉山和一《わいち》』というタイトルの放送劇は白石教頭が書いたものであるから、出演者は白石教頭の要請によって集められたものと思うが、昭和三十年(一九五五年)の文化祭に演じられたものであると記憶している。作者の白石教頭は、以前私達のクラス雑誌であった『明星《みょうじょう》』に、枯葉《かれは》というペンネームで連載小説を執筆してくれていた。

 劇の内容は、白石教頭の特徴がよく表現されていて、盲目の鍼師である杉山和一が、とある宿場で喘息に悩む中年の女性を治療し、見事にその発作を静めることで、患者の娘や息子に大変感謝され、特に娘にはささやかな思いをかけられるという、ロマンティックな一面も匂《にお》わせた物語である。登場する人物は、喘息に悩む患者を広沢松江さん、その娘を和久越子、息子を山口雄士《ゆうじ》、漢方医薮居灸安《やぶいきゅうあん》を渋谷三亀夫、宿場の青年を大滝順治《みちはる》、杉山和一の役に私が付き、それにナレーションを確か山下桂司が受持ったように記憶している。

 四尺もある長い杖を突いて、宿場を歩いている、それほど大柄でない、振り分け荷物を肩にした杉山和一の格好は、いかにも白石教頭の想像した人物のように思えて何となく納得できたので、そのような人物に扮するのに努力を要したのであった。

 以上のように、私はいくつかの劇に参加してきたが、そのどれもが皆懐かしく、つい昨日のことのように思い出されてくるのである。ただ欲を言えば、一度でいいからシェークスピアの『リア王』のような、外国の劇を演じてみたかったと思っている。

進学する友人たち

 荻窪教諭が埼玉盲を去ってから半年ほど過ぎた頃、茂木幹央は高等部本科三年になると間もなく、私に向かって、

 「大嶋、僕は専攻科に行かず、出来るかどうかわからないが、普通の一般大学へ進学し社会科学を学び、将来何か社会事業みたいなことを行なうための基礎作りをしたいのだ」

と、何かの話の最後にそう言ってちょっと私を驚かせた。が、前々から茂木はそのようなことをほのめかしていたので、私はすぐに茂木のそうした決意が納得できたのだった。そして茂木は、その後間もなく、点字で発行されている社会科学の専門書を購入したり、点訳されているそうした類《たぐ》いの点字書を、日本点字図書館や日本ライトハウス点字図書館などから借りて、必死に机に向かって読むようになった。勿論、受験のために必要な高等学校の社会科や歴史、国語や英語の教科書も勉強していたことは当然のことであった。確か放課後週一、二時間福田守夫教諭に英語の指導を受けていた他は、ほとんど独学に近い受験勉強だった。

 福田教諭は、立教大学文学部のキリスト教学科を卒業し、埼玉盲の外国語科の教諭となった埼玉盲の先輩で、私が本科三年の時英語の授業を受け持ってくれた。

 そんな訳で、茂木は学校の授業時間と食事と用をたす時間以外は、ほとんど自分の座机に向かい勉強していた。時にはそれが故に、万年床のままであったり、ひどい時にはその布団の上に新聞紙を敷き、そこで靴を磨くということもやってのけたので、誰言うとなく「無精王」というニックネームで呼ぶようになった。それに茂木は、誰から譲り受けたのかわからないが、ワセリンのような油を塗りたくった汚い学帽を、自分の宝物だといって大事そうに持っていた。安喰氏がその学帽を評して「山梨のイカ」と言っていたが、触れてみるとまさにそんな感触を覚えた薄汚い帽子だったことを覚えている。

 だが、茂木は、他人が何と中傷しようと委細構わず勉強に熱中していた。そういう茂木の部屋に、やがては東京教育大学付属盲学校の高等部への入試に挑戦しようとしている、中村文夫《ふみお》と小野隆作《おのりゅうさく》がいるようになり、まさに勉強家の揃った静かな部屋であった。しかし茂木は、人付き合いの方も決して悪くなく、屑煎餅やかりん糖をかじりながら、クラスの者や同室の者達と楽しそうによく語り合っていた。その頃、茂木や渋谷や私が、かつての荻窪教諭の影響もあってか、南原繁《なんばらしげる》の『人間革命』、矢内原忠雄《やないはらただお》の『マルクス主義とキリスト教』、笠信太郎《りゅうしんたろう》の『物の見方』、大内兵衛《おおうちひょうえ》の『空想より科学へ』、田中晃《あきら》の『世界観』などという、いささか堅い哲学書めいたものをかじり読みして、時にはそれを素材に議論することもあった。

 私はそうして勉強に夢中になっている茂木や小野や中村を見て、羨しさを感じたものである。

ところが、そうした茂木の懸命な努力にもかかわらず、全盲の学生に大学受験を許可してくれる大学は、なかなか見つからなかった。茂木は二学期の中頃から、時折授業をエスケープして東上線で都内に入り、当時全盲の大学生が卒業したり、あるいはかつて在学していたり、また現在在籍していると思われている大学へ単身乗り込み、入試係の者や事務局の者に面談し、懸命に学問への思慕と未来への構想を述べたようであった。しかし、茂木が高等部本科三年を卒業するまでにはどの大学も門戸を開かず、その時点では明るい未来を茂木に与えてはくれなかった。だが茂木は、十数校の大学から入学の門戸を閉ざされても怯《ひる》まなかった。そんな茂木を見かねて白石教頭が、

 「茂木君、今は事情が君に備わらないのだから、一時進学を諦め専攻科へ進み、そこを卒業し、鍼師、灸師の免許を取得してからもう一度挑戦しても遅くはないのではないか。もしかしたら、その頃になったら門戸を開いてくれる大学も出てくるだろう」

と、授業中にそう言って茂木を諭《さと》したこともあったが、茂木の熱情は決意を変えなかった。ただ、一つだけ茂木は幸いにも、『あはき法』が戦後改正された時、まだ小学部ではあったが、熊谷盲学校に在学中、特殊な指導を受けて按摩師の免許を取得していたので、いざという時には、それを生かしてのアルバイト生活を送ることができる余裕があった。だから茂木はその頃、

 「だから僕は最低生活は保障されているのだ」

という言葉を時折吐いていたのである。

 卒業式の二日前に、そんな茂木を含めたその年度の卒業生や転校生の、送別祝賀会が行なわれた。専攻科を卒業する新井宗作、新井勘七、藤間善造の三氏に、別科卒業の穂積幸枝、付属盲の高等部本科に進学する小野隆作、守谷茂の別れの挨拶があったが、茂木もその席で堂々と自分の胸を叩きながら、別れの挨拶をした。茂木は縷々、埼玉盲での思い出を語った後、

 「まだ、僕を迎えてくれる大学はない。しかし、僕は本校を卒業します。そして目的を果たすまで頑張ります。男一匹出たとこ勝負、何も恐れることはない。お天道様と米の飯は付いて回る。それに僕は幸いにも按摩師の免許を取得しているから、自力で最低生活は保障できると思います。ですから、安心して見守っていて下さい。僕は必ずやりますから」

と、明るい声で悠然と自分の決意を述べたのであった。

 その日は、昭和三十年(一九五五年)の三月の下旬に近く、うららかな春の日が教室の窓ガラスを通して差し込んでいたので、私は快い温かさに快適な気分になっていた。

 このような決意表明をした茂木は凄まじい執念のもと、ついに初心を貫き、その後五月の初旬に日本大学の法文学部社会学科に合格し、入学したという点字四枚の嬉しい封書の便りを、私にくれたのであった。茂木は現在深谷市に、社会福祉法人盲老人ホーム「ひとみ園」を自力で設立し、彼の宿願であった社会事業活動に園長として従事し、多大な貢献をしている。

 次に、その年、東京教育大学付属盲学校の、高等部本科按摩鍼灸科への入学試験に合格した守谷茂と、小野隆作の思い出について記そう。

 守谷は、昭和二九年度の一年間を、それまでの通学生活をやめて埼玉盲の寄宿舎男子寮三号室へ入舎し、受験勉強に励んでいた。だが、文学と音楽を好む守谷はそんな折でもよく、点字の文学書を図書館から借りて読んだり、放課後同室の青木のひくオルガンの伴奏で、「平城山《ならやま》」とか「砂山」、あるいは「シューベルトの子守歌」などをきれいなハイバリトンで歌ったりして、適宜気分転換を図っていた。

 それに余裕があったのか、守谷は、秋に行なわれた寄宿舎の文化祭の時、自分の部屋の者と協力し合って、『島崎藤村のプロフィール』を発表した。それは同室の小松博《ひろし》の弾くオルガンの静かなバックミュージックに乗せて、藤村についての年譜や詩、あるいは小説『破戒』の一節を同室の者がそれぞれ代わりあって朗読したり、「朝」や「椰子の実」の歌を室員全部で斉唱したりするという、文学的な格調高いものであった。受験勉強のストレスのためか、時折、

 「胃の部分がしくしくと痛くなってくる」

などと言っていたが、落ち着いたペースで机に向かっていた。

受験が終わった後も守谷はどことなく落ち着いていて、

 「どの科目もとても残念ながら、素晴らしい出来映えとは言えないけど、一応頑張って書けるものは書いてきた」

と、余裕のあるところを見せていた。

小野は、どちらかというと守谷と異なり、理数系の学科を好む方だった。だから小野は時折私のところへ

 「こんな問題はどうやって解いたらいいのかな」と言って、理科や数学の問題を見せにきた。見るとそれは、旧制中等部用の算術学、代数学、幾何学、また文部省検定済みの、高等学校用数学解析Ⅰなどの点字の教科書の中から、入試問題になりそうなものを探しできたり、また旧制中等部用の化学や物理学、生物学や地文学の点字教科書や、文部省検定済みの高等学校用化学や物理学、あるいは生物学の点字教科書の中から、やはり入試の問題になりそうなものを見つけてくるのだった。私にはそうした問題をすぐに解くことなどとてもできなかったので、いつも小野と一緒に智恵を絞って考えたものであったが、そうした時、小野の理数系の頭脳の良さに舌を巻いたものである。私がその中で一番驚かされたことは、平方根の値をそろばんで求めるという方法をやってのけたことで、小野は、

 「福沢先生に教えてもらったんだよ」

と言っていたが、福沢教諭の話では、

 「僕はそんなそろばんによる平方根の求め方など、小野君に教えた覚えはない」

ということだったので、小野は何かの方法でそろばんによる平方根の求め方を案出したのであろうが、そのことについてはとうとう、聞くことができなかった。

 私が専攻科一年に進級した昭和三十年(一九五五年)になると、守谷や小野に続いて中村文夫、川口暁子、岩内節子の三人もまた東京教育大付属盲学校への受験準備に励み出した。三人は、いずれも高等部本科一年に在籍している生徒だったが、理療科を中心とした高等部本科一年の授業を受けながら、入試の勉強にいそしんでいた。もともと頭脳的にも学力的にも一定の力量を有していたので、誰の目にも来春の受験の合格は間違いないように見えた。しかし、本人達三人にしてみれば決して油断はできなかったので、慎重の上にも慎重を期し、入試科目である理科、数学、社会、国語、英語にまんべんなく取り組んでいた。私はそんな彼ら三人の学習する姿を見て、何となく羨ましいような思いが胸の中をよぎるのを覚えた。しかし、私自身の進学については、普通科目も全く自信がなかったので、ほとんどその当時は考えていなかった。

 決してそんなことはなかったのだろうと思うが、岩内、川口の二人にとっては、英語や国語より、社会や理科、数学などの学科の方が不得手だと思っていたのか、時折一応先輩である私のところへ問題を見つけては訪れて来るのだった。しかし、前述したように、私とても普通科目には自信がなかったので、いつも彼女達と一緒にその問題を考えることが多かった。彼女達は二人一緒に訪れて来ることもあったが、問題によっては別々に来ることもあった。したがって、私は、次第にそれぞれ個人的に会話を交わすことが多くなり、親しくなっていった。

 勉強の合間に私は彼女達と時折、学校の周囲を取り囲んでいる田畑の畦道を散歩したことがあった。そこは春はやさしい風が頬をなぜ、夏はかえるの合唱、秋には美しい虫しぐれが、私達に限りない詩情の世界を与えてくれた。

 また、中村、川口、岩内の三人は弁論にも優れ、文学書も読んでいたので、彼らと語り合うことは私にとって大いなる楽しい時間であった。そうした彼らの一年間の研鑽が実を結ぶであろう、付属盲の高等部本科按摩鍼灸科への入学試験の日がやってきた。

 昭和三一年(一九五六年)の三月のその日、三人は万全を期して受験に挑戦したのである。受験から戻ってきたその日、中村は、

 「数学は四題とも皆手をつけたが、そのうちの二題は完璧に解いてきた」

と、明るい落ち着いた声で言い、川口は、

 「感動的な図書を一つ挙げ、その感想を十行以内で書け、とあったから、モーパッサンの『女の一生』について書いてきた」

と、国語の解答の一部分を晴れやかな声で話した。岩内は、その当時通学していたので、翌日に感想を聞いたのだったが、その時岩内は幾分疲れたような低い声で、

 「とにかく頑張りました。理科の、アルキメデスの原理を使っての応用問題が解けて嬉しかった」

と、それぞれほっとした気持ちを秘めながら、一つ山を越えた受験後の気分に浸っているようだった。

 「この分ではうまくいくと三人とも合格するかもしれない」

私は内心その時そう感じたのだった。それから四日ばかり過ぎた後の合否発表の日の朝、青木五郎が私のところへやってきて、

 「大嶋さん、俺は今日の六時間目の授業が終わったら、付属盲まで発表を見に行ってくるよ。だから寮母先生には適当にうまく言っておいて下さいよ」

と、こっそりささやいた。普段から感が良く、歩行能力が抜群で行動範囲の広い青木は、彼ら三人のために時折付属盲まで出向いて行き、野球などで以前から知り合っていた友人から、入試に関する各種の情報を集め、それをクラスメイトである中村、川口、岩内に提供していたのであった。そんな青木の心の内には、自分は付属盲へは行かなかったが、付属盲の受験に三人を合格させたい、という友情が満ち満ちていたのであろう。が、とにかくよく付属盲へ出向いたものであった。そんな青木の姿を見るたびに私はいつも、偉いやつだなあ、とつくづく感心したものであった。

 私も口に出してはいなかったが、三人の合格は間違いないと思いながらも、合否の結果を知るまでは落ち着けなかった。自習時間が終了してしばらく経った頃、トイレに行った私にいきなり青木がかじりついてくると、

 「大嶋さん、オールだ、オールだ。三人とも受かったよ。万歳だ、万歳だ」

と、感情を露《あらわ》にしながら大声で叫んだ。私は、

 「おお、そうかい。それはよかったなあ」

と、ひとこと言ったきり後は声が詰まって出なかった。熱いものが胸の中に広がっていくのを覚えた。その時の私は本当に我がことのように嬉しかった。

 中村、川口、岩内の三人が合格したので、付属盲における埼玉盲の出身者は、石井、守谷、小野の三人に加えて六人となったのである。

校舎内七号室の思い出

 埼玉県立盲学校の古い寄宿舎が、昭和三十年度に入ると満員になったということで、上学年生の八人から十人ほどの者が校舎内にあった畳敷きの実習室(もとの按摩実習室)に、やむなく寝泊りすることになった。そのような経験は私の六年間の在学中二度を数えた。最初の経験は、昭和二七年(一九五二年)の四月から七月までの丸三ヵ月の期間で、この時は校舎内の二階の西の端にあった聾学校の実習室を、一時盲学校で借用し、使用させてもらったのである。当時は、盲学校と聾学校とが実質的に分離する直前だったので、校舎内は何となく落ち着かず騒然としていた。そこは聾学校の家庭科実習室のようで、やはり按摩実習室のように畳が敷かれていたので、利用することになったようだ。

 その時、一緒に寝泊りしていた仲間は当時舎生であった栗原、平松、新井、安喰の先輩四氏に、岩田、大滝、茂木、当摩《とうま》、青木それに私の十人。それに東京教育大学付属盲学校の、中学部二年への転校受験準備の関係で、六月の下旬から一ヵ月程舎生になった石井が加わった。

 二度目の経験は、前述したように昭和三十年(一九五五年)の四月から三二年(一九五七年)の三月までの二年間で、この時には安喰氏を頭《かしら》に岩田、大滝、当摩、高野、鯨井、青木、島崎、三木それに私の十人だったが、このうち安喰氏と当摩は昭和三十年度、三木と鯨井は、それぞれ三一年度の一年間だけ共に生活した仲間であった。

 二度目の時は、盲聾学校が完全に分離を済ませ、高等部も本科別科の他に専攻科の課程もでき、既に丸三年を経ていたので、各種の面で盲学校全体が充実しつつある頃だった。部屋は校舎の二階にあった按摩実習室で、畳敷きの二十三畳の広さがあったが、部屋には寝具など片付けておく戸棚などなかったので、西側に三台、東側に二台ベッドを縦長に壁に押し付けて並べ、その上下の空間にそれぞれの寝具や行李《こうり》、その他の荷物を並べて置いていたのである。

 しかし、部屋は窓ガラスを通して陽光がさんさんと差し込んでいたので、晩秋から冬期、そして早春の時期といえども日中は温和な空気が漂い、晴天でありさえすればそれほど寒くなく過ごし良かった。だが、夜間になると、雨戸がないので温和な空気がいつの間にか冷気と化して、冷たい室内に変化していた。ところが、晩春から夏期そして初秋にかけての頃は、部屋や廊下の窓の全てを、放課後から翌朝の登校時まで開け放しておくと、雨天の時以外はいつも心地良い涼風が吹き抜けて行き、過ごし良い環境になっていた。それに、この二度目の生活経験の時は、学年的にも年齢的にもそう大きな差のない高等部の男子生徒だけだったので、以前の時のような学年差、年齢差からくる不必要な遠慮や気苦労をすることは、ほとんどなかった。だから相談事はお互いほとんどがうまく解決されていたし、本科三年と別科二年以外の高等部の全生徒が、その当時一緒に授業を受けていた音楽や体育の教科などの中間や期末試験の時には、みんなで協力し合い試験勉強をしたので、七号室の仲間は皆思いがけない好成績を上げ、共に喜んだものだった。

 それにまた、生徒会の運営などでは、七号室の仲間の中から本部役員に立候補し当選する者がいたので、七号室の中で生徒会運営の素案作りをすることもあった。

 十人のうちの高野、鯨井、島崎、三木の四人は、七号室で共に生活をするようになるまでは、腰を落ち着けて語り合った経験がなかったから、私は新鮮な仲間を得たようで嬉しかった。

 四人の中での年長の鯨井は、県立熊谷商業高校を卒業し、一般事務職員としての職場経験を持った弱視生だったので、新聞をよく読む習慣がついていた。そのせいか、一般社会の変遷に対しての事象については、敏感にそれらをキャッチする鋭い観察力を持っていた。だから、ラジオのニュース等で報道される事柄についても、こちらから問いさえすればよく説明してくれた。普段は歌が好きで、三橋美智也の歌う流行歌を、きれいな民謡調の高い声で器用に歌いこなしていた。

 高野は、高等部に入学したら体格がぐんぐん豊かになった一面、弱視から全盲に変わるという視力的には不幸な時期があったが、その代わり行動力とともに発言力も次第についてきたので、有能な高校生になっていった。先天的に手の器用さを備えていたこともあってか、たちまち理療科の実技の上達ぶりを発揮し、鍼の刺入速度では岩田に次ぐ腕前になり、周囲の者を驚かした。また、高野は、左右両手が器用に利いたので、盲人野球の投手としてもたちまち優れた選手となっていった。

 島崎は、弱視生の言を借りると、いつもにこにこと笑みを湛え、楽しそうに見える準盲生だったが、若さ故に時折粗暴な振舞いを見せることがあった。だが、頭脳が優秀で分析的能力に長《た》けたところがあったので、そのためか将棋を指すと、なかなかのつわものぶりを発揮していたようだつた。

 三木は、部屋では最年少で背も幾分小柄だったが、視力は〇・二以上あったので、行動には俊敏さが見えた。そんなところが特に目立ったので、中学部に入学するとすぐに野球部からマークされ、中二の時には既にレギュラーメンバーに加えられていた。大きな当たりはそれほど見せなかったが、確実にヒットの打てる選手に成長していたようだ。

 七号室の総計十人の仲間の共通的な特徴は、ラジオから流れる流行歌と放送劇を好んで聞くことで、特に放送劇を鑑賞することには全員一致の感があり、若さ故に恋愛的な内容のドラマとか、芸術劇場や名作劇場といった文学的な格調の高いドラマは決して欠かすことはなかった。そして、それらを聞き終わった後には、全員とは言わないが、二、三の者が必らず集まってそのドラマの感想を述べたり、それが連続ドラマであれば次回の内容を予測などしたりして、楽しい時間を過ごしたものであった。

 仲間同志は、ドラマに限らず相撲や野球などのスポーツ放送においても、また放課後など車座になって一日の学校での授業内容のことや、読んだ小説などのことについても語り合った。また話は、七号室の仲間以外の他の中高部の生徒達や、学校の教職員の噂話などに発展していくこともあった。

 そんな開放的な放課後のひとときの時間に時折、舎監の恩田教諭や内田教諭あるいは寮母達も加わることもあったが、私達はそんな時には特にそうした顧問や舎監、寮母達の存在を気にせず、失礼にならぬ範囲で雑談として、各種の要求事項や不満事項を言わせてもらい、舎監や寮母、学校の教職員達の考え方を聞かせてもらった。

 七号室での生活の中で迎えた最初の年の真冬に、私達は実に楽しい夜食を味わう体験をした。私が埼玉盲に在学していた六年間の冬の暖房は、教室も実技室も寄宿舎の各室もその設備は皆無に等しく、皆、木製か陶器製の火鉢につがれた炭火の、わずかなぬくもりで耐え忍んでいた。であるから、当然校舎内の二階の七号室の寒い部屋も同様、火鉢のぬくもりで暖をとっていた。ただ、七号室は部屋が大きく広かったので、比較的大型の木製の火鉢が二つ用意されてあった。私達七号室の仲間達は、雨戸のない窓ガラスのガタガタと鳴る音を耳にしながら、冷え切った部屋でジャンパーや半《はん》てんを上着の上に重ね着して、火鉢につがれたわずかな炭火のぬくもりにお互い手をかざし、たわいない会話を交わして長い冬の夜を過ごしていたのである。

 ところが、正月休みから寄宿舎へ帰ってくると、一同はそれぞれ郷里の家から持ち帰った正月餅を出し合い、五徳にかけた金網にその餅をのせ、醤油焼きにして、消灯前のひとときの時間を楽しく過ごすのだった。

 餅は、その家のしきたりでそうなっているのか、大きさや形などにも幾分の違いがあった。が、どれも皆「うまい」という喜びの声を上げさせる味に変わりはなかった。一同は餅を代わり合って提供し、それが全てなくなるまでに、電灯の明りの下で毎晩食らい続けていた。ところが、食欲旺盛な若い仲間達の腹は、十日も経たないうちにその全てを食い尽くし、その後はいつも口寂しい夜を二、三日慣れるまで耐えなければならなかった。しかし、耐えきれない者もいて、彼らの中には一つ十五円の、あんこをはさんだコッペパンを買ってきてかぶりつく者もいた。

 「さんまの開きを焼いて食ったらどうかな。あれは一ぴき八円だから二ひき食っても十六円で、あんこのはさまったコッペパンを一つ食うより一円高いだけだ。栄養的にも価値があり、寒い夜の食い物としてはこれの方がずっと得になるよ。適当に醤油を付けて焼いて食ったら、きっとたまらない喜びを味わえるよ」

 誰がそう最初に提案したのかは記憶してはいないが、これは実に素晴らしい思いつきであった。だから、仲間達は皆諸手を上げて賛成し、舎監の恩田教諭に事情を打ち明けて許しを請うたのだった。すると、思田教諭は舎監であることを心得ながらも、

 「なるほど、そうか。それはあんこのはさまったコッペパンを一つ十五円で買うより、さんまの開きを一人当たり二ひきずつ十六円出して食った方が、栄養的にも寒い夜を過ごす上にも、またその後眠るにもずっと合理的な成果の上がる軽い夜食になるな。ただ、火鉢の火の始末さえきちんとしてくれれば、特別に許可をしてもいいよ」

と、多少の笑い声を交えながらそう言ってくれたのだった。

 舎監の了解を得たので、私達は舎監の気持ちを裏切らぬように極力注意しながら、それからはほぼ毎晩、さんまの開きを焼いて食うという夜の時間を過ごしたのである。ところが、さんまの開きから発する強烈な独特の臭気や煙が部屋いっぱい立ちこめ、部屋の中にあった寝具や衣服や教科書など全てのものに染《し》み付いてしまったのであった。だから、臭気に順応してしまった私達はそれほどではなかったが、それらの臭気の染み付いた衣服を着て教科書や鞄などを持って教室へ出向いて行くと、仲間達は皆、

 「おい、この臭いはなんだ。さんま臭いじゃないか。お前達は毎晩さんまを食っているのか」

 「ひどい臭いだ。たまらないからどうにかしてくれ」

と言う、叫びに近い声を上げた。授業に来た各科目の教師達もそれぞれ、

 「珍妙な夜食のなごりが漂っているね」

と、苦笑しながら授業が始まる前に一言、言葉を添えていた。夜食のことで非難があったので、その後は臭気がこもらぬように注意しながら、それでも二週間近くの間続けていた。

「さんまクラブ」という勝手な名前を自分達の仲間に付けて、至極満足していたのだから、思えばいい気なものであった。

 さんまの開きを焼いて生じた臭気で思わぬ騒ぎを巻き起こしたので、さんまの開きの夜食はその翌年の冬はほとんど実行しなかった。

 確か、あれは二年目の昭和三一年(一九五六年)の、二学期の終業式の二日ほど前のことだったろうか。校舎内七号室の仲間達で舎監の思田教諭と本田、大熊の二人の担任寮母を招いて、クリスマス会を開いたことがあった。会は七号室で夕食後、自習時間のない日の七時半頃から開かれた。会は、会計と司会の役についた島崎の進行でなごやかに進められた。わずかな駄菓子とジュースの他に、特別に千葉屋という食堂からラーメンをとって卓上を賑わし、一人一人好き勝手な感想やら意見などたわいのないことを語り、会を盛り上げたところで歌になった。

 歌は皆それぞれ得意とするものを歌っていたが、恩田教諭の「一高寮歌」、本田寮母の「台湾情歌」、大熊寮母の英語で歌ったクリスマスソング「ジングルベル」などが印象的だった。更に鯨井がきれいな高音を張り上げて歌った民謡の数々が特に素晴らしく、民謡を好んで歌う私は大いに感心させられたものであった。

 こんな訳で、二年間の七号室での生活は楽しさのみが記憶に残って、今もなお私を喜ばせてくれているのである。

検定試験に初挑戦

 私が都道府県知事の行なう理療業に関する検定試験を初めて受験したのは、昭和三十年(一九五五年)の春で、私が高等部本科按摩鍼灸科の三年の課程を卒業した直後であった。それは、年度末休暇とか春期休暇とか呼ばれた、二週間ほどの休暇の中ほどの二日間に行なわれた試験であった。それを受験するまでの私は、それまでの二、三年、埼玉県では一度も、そうした理療業に関する検定試験が行なわれていなかったということもあったので、内心大いに心配であった。

 何故かというに、実技は自信のなかったこともさることながら、理療科の教師団の語るところによると、最初の試験は、以前私のクラスの茂木や渋谷また山下や内藤が受験した、あはき法二一七号が施行された昭和二三年(一九四八年)の頃より、はるかにその内容が難しいと聞かされていたからであった。

 さらに一年ほど前の栃木県での検定試験の際には、按摩師の受験者が何人も不合格になっているとも聞かされた。その頃、点字による問題集などはほとんどなかった。それでも東京点字出版所で発行した按摩師、鍼師、灸師の試験問題解答集という、貴重な点字書が手に入ったので、受験する予定であった私以外の岩田、大滝、宗像などと一緒に回し読みし、その他、教科書を読みこなす努力などを重ねて、受験への準備を続けたのであった。それに、これはあまり理由にはならないが、私達のクラスの中には、既に按摩師の免許を取得している者が八人中四人もいたので、絶対に失敗はできない、辱しめを受けたくないという気持ちがあったから、一層がんばったのである。

 昭和二三年(一九四八年)の一月に施行された、あはき法二一七号が、その効力を発し始めた年に私の仲間の山下、渋谷、茂木、そして内藤の四人は按摩師の免許を既に取得していたので、彼らは極めて恵まれた呑気《のんき》な身分に見えたのである。だから、彼らは私の目から見ると、羨ましいほど悠々として教科書以外のエッセイや、社会科学的な本や文学書などを読んで学生生活を楽しんでいるようだった。特に山下などは、按摩師の免許を生かしてよくアルバイトに励み、家庭の経済運営に貢献していたようで、按摩師の免許の威力の大きさにつくづく感心させられたのであった。

 八人の中で、これから受験して免許を取得しようという私達四人は、戦々恐々というほどではなかったが、心のどこかにいつも、ある種の不安と焦りのようなものを少なからず感じていた。

 それは白石教頭の検定試験に関する話によると、試験は学科と実技の両方があり、按摩師の学科は解剖、生理、病理、衛生、症候概論、治療一般、按摩理論、医事法規の八科目もあり、実技は按摩とマッサージの二つが別々に行なわれると聞かされたからであった。だから、私達四人は茂木の大学受験の勉強ほどには夢中ではなかったが、それでもその年度いっぱいは、自習時間をそれらの勉強のために真面目に過ごしたように覚えている。

 検定試験のための、模擬テストがあると聞かされた時は素直に驚き、真剣に勉強したものだった。その当時の模擬テストは実技も含まれていたので、学科八科目と実技二科目の計十科目というものだった。

 三学期に入って間もなく、模擬テストの日がやって来た。始めての体験に全身が固く緊張し、私は点筆が思うように動かなかった。実技は緊張のためか、やや手が震えていた。何故かと言えば、それは按摩実技が白石教頭、マッサージ実技が恩田教諭という、埼玉盲では知らぬ者のない臨床治療における二大名人が、試験の担当者だったからである。

 とにかく、緊張の連続だったが、その時の模擬テストはどうにか合格圏にすべり込むことができ、ほっと一息ついたのである。

 埼玉県における本試験は前述したように、昭和三十年(一九五五年)の春期休暇中の中ほどの二日間で行なわれた。正確な日時はしかと記憶していないが、私が一度終業式後、一週間近く秩父の里に帰省していたことは明瞭に記憶しているから、恐らく三月末の二日間か、四月初旬の二日間のどちらかだったに違いない。その二日間は曇りがちの薄ら寒い春らしくない天候であった。

 戸籍抄本を取り寄せた上で受験願書等の書類の一切を津末《つすえ》教諭にお願いしていたので、私達は初日は受験票と筆記用具を、二日目は受験票と白衣とハンカチあるいは手拭いを用意して行った。昼食をどのようにして済ませたか、全然記憶していないのが我ながら不思議でならない。それに、記憶がないと言えば、試験場が浦和市の小学校のような所を借りて行なわれたのであるが、その場所や学校名も全然おぼえていないのである。

 さて、本試験の当日、試験場へ入ると長机がきちんと並べられていたようで、既に他校の受験者は席についているようだった。一つの長机に二人ずつ並んでつくと、間もなく試験官の総合的な注意があり、試験は九時十分頃から開始された。

 私達按摩師の試験は、午前中解剖、生理、病理、衛生、それに医事法規の五科目で、予定は三時間だった。気温が低かったので、指先の感覚が鈍く、問題の解読にいささか苦労し、点筆も思うように走らなかった。一年先輩の安喰、浅野の両氏は弱視だったので、問題の解読に苦労することもなく、ちょっと羨ましかった。大滝、岩田、宗像、それに私の四人は必死に点筆を走らせ、挑戦これ努めた。

 午後の科目は症候概論、治療一般、按摩理論の三科目だった。午後は科目が少なかったのと、気温が幾分上がったようなので午前中より楽であった。

 二日目の実技試験の日は試験場へ入ると、広い一部屋に受験者が大勢入れられ、自分の順番の来るのを待たされた。私達は他校の受験者に迷惑にならぬよう、小声で実技の順序や方式などを復習し合ったりした。廊下を隔てた向こう側の部屋にも受験者がいたが、それらの受験者は弱視の友人の言によると、皆若い正眼の女性のようであり、皆化粧をしているとのことであった。

 午前十一時を少し過ぎた頃、私の順番が回ってきたので、係官の案内に従って試験室へ入った。入ると室内には、クレゾール水の独特な臭気が立ち込めていたので、私はふと気がつき挨拶の後、

 「まず、手を消毒させて下さい」

と、申し出ると、係官が私を、クレゾール水を入れた洗面器と、温水を入れた洗面器とが並んで置いてある場所へ案内してくれた。

 手を消毒してから実技試験に取りかかったのだが、試験は一人の試験官が、按摩とマッサージの両方の実技試験を担当していた。

 まず、按摩の実技の試験では、試験官の体に触れてみると、試験官は何故か椅子の端の方へ腰掛けていたので、私はそれをきちんと腰掛けさせ、それから命じられるままに肩上部の按摩実技を行なった。次に行なったマッサージ実技の試験では、試験官の下腿部をマッサージせよと命じられた。そこで私は、

 「すみませんが、ズボンを片方脱いで下さい」

と、声を掛けた。すると、試験官は、

 「ああ、そうか、そうか、わかりました」

と言って、片方のズボンを脱いでくれた。私は続いて靴下も脱いでもらい、それから下腿部のマッサージを行なった。それは、按摩もマッサージも術前の注意事項に、試験官はかなり重きを置くと指導されていたからであった。

 ちなみに、まだその年度の試験では、指圧術と指圧師のことについては、あはき法の中で法令化されていなかったので、実技試験には組み込まれていなかったのである。

 試験の全てが終了した時、私は、

 「やるだけのことはやったのだから、これでいい」

と言う、ある種の開き直り的な思いが胸中をよぎった。

 その当時の社会的なニュースとしては、ラジオ東京が、その年の四月一日からテレビ放送を開始したことと、四月の統一地方選挙で、創価学会からの候補者五一人が当選して、特殊な政党の誕生が強く印象づけられたことである。

JRCとラーフボーイズ

 埼玉県立盲学校の生徒会が特に活発化の様相を呈してきたのは、私のクラスの茂木幹央が生徒会の会長になった昭和二九年(一九五四年)の頃からであった。茂木は前述したように生徒会会長に立候補した時も、特異な類のない選挙演説をやってのけ、聴衆をあっと言わせた人物だけに、その生徒会運営はいささか強引なところもないではなかったが、十七歳という若さが会の活動に新鮮味と積極性をもたらしたのであった。

 それにその年の二月十六日から工事に取りかかった校内放送設備の付設は、生徒会活動、特にその秋から計画された第一回埼玉県立盲学校文化祭の成功に、大きな役割を果たしてくれた。また、二年続けて関東地区盲学校弁論大会で埼玉盲が、中村文夫と川口暁子の健闘によって学校総合優勝を勝ち得たことは、対外的にも埼玉盲を知らしめることに大いに貢献したのであった。更に、文化祭の開催ということで、近隣の中学校や高等学校へ積極的に案内状を配布したことも、また盲学校の児童、生徒と一般の中学校や高等学校の生徒達との、交流を深めるきっかけとなったのである。そして、この新しく芽ばえた新体制のエネルギーは、茂木が埼玉盲を去った後にもそれらを引き継いだ、やはり私のクラスの仲間の一人である、岩田次郎が生徒会会長になっても変わりなく、尚一層の発展を見せたのであった。文化系のクラブに新たに文芸クラブなどもでき、生徒会の中に新気風を生み出したのもこの年であり、前述した全点協問題に必死に取り組み、一大運動を展開したのもこの時期であって、これがまた生徒会の充実進展にプラスしたのであった。

 JRC(少年赤十字)に属している多くの高校生を連れて、田所貢《たどころみつぐ》氏が埼玉盲を訪れたのはそんな頃だった。若々しく幾分調子の高い、それでいながらソフトな感じをも兼ね備えた田所氏の、人懐っこい友愛性に満ちた声と話し方は、私達の心のどこかに何となく安心感を持たせ、それに一般の中学生や高校生に対して持っていた、一種のコンプレックスめいたものを少しずつ解きほぐしてくれたのだった。

 実際、その当時の盲学校の生徒達の多くはそのハンディからきているコンプレックスを持ちながらも、一方では同年齢の中学生や高校生と打ちとけて自由に語り合ってみたい、また、自分達のことを理解してほしい、という願望を持っていたことも確かだったと思う。だから、田所氏が高校生達を連れて何度か盲学校を訪問してくれるうちに、次第に彼らと親しく言葉を交わす生徒の数が増えていった。

 そうしているうちに、双方で交流の輪が結ばれるようになり、やがて午前中は読書会や勉強会、あるいは交流会が計画的にもたれるようになり、午後には主として盲人野球などのスポーツや、郊外散策などが行なわれるようになっていった。そんなことが続いたので、盲学校の生徒達は、一般高校の生徒達と心おきなく語り合うようになり、また、個人的に文通を重ねる者までも出てきたのであった。

 JRCの高校生が訪問してくれた最初の頃は、男子高校生だけのように思われたが、それは実際は私の記憶違いのようであり、女子高校生もいたようであった。女子高校生の参加が目立ってきたのは、私が専攻科二年、即ち埼玉盲での在学最後の年、昭和三一年(一九五六年)になってからのようである。渋谷三亀夫などは、積極的に女子高校生と楽しそうに言葉を交わしていた。その渋谷から、私は川越女子高校の畑と森田という二人の女子高校生を紹介された。

 ただ、その当時、私は一応受験勉強などに力を傾けていたので、神経を多少すり減らしていたから、愛らしい女子高校生と握手したり、青春を語り合う機会をあたら失ってしまったことが、今考えてみると誠に残念でならない。何の悪びれるところもなく、心おきなく語り合っていた渋谷や他の仲間達が、羨ましく思えるのである。

 そのようにJRCが毎週のように訪問してくれた頃、我が埼玉盲に、誠に新鮮な合唱グループが誕生した。グループの名称はラーフボーイズ(笑う少年達)と言い、中村文夫がグループリーダーであった。グループには中村の他安次嶺徳栄《あじみねとくえい》、西川勝《まさる》、橋本時夫《ときお》、林利之《としゆき》がいて、指導は音楽家の上竹信子《うえたけのぶこ》教諭が献身的に行なっていた。ラーフボーイズの好んで歌っていた曲は、その頃青年合唱団などでよく歌われていたユーモラスな曲や、美しい合唱曲が主だったが、当時私が聞いたものの中で、一曲だけ「秋の月」という歌が特に強く印象に残っている。

 ラーフボーイズの活動は、JRCやその他の高校生や中学生達との交流会などの時、積極的に参加していくことであった。私の感じでは、中村と安次嶺の二人のテナーと、他の三人との調和が実にうまくいっていて、素晴らしいそのハーモニーにつくづく感心させられたものであった。誰から聞いたのか記憶していないが、西川は絶対音感を持っているという優れた一面があったということで、沖縄育ちの安次嶺の南国的な幅の広い声と共に、グループに大いに幸いしたように思える。

 安次嶺徳栄は、身長が中村より幾分高く、筋骨質のたくましい体格の持ち主だったが、坊主頭だったので、私は『アイバンホー』とか『ロビンフットの冒険』などの物語に出てくる名物坊主のタック坊主を連想して、以後彼のことをタック坊主、あるいはタック、というニックネームを付けて呼ぶようにしたのである。

 また、西川は、本当に優秀な絶対音感の持ち主で、無伴奏で合唱曲を歌う場合、彼の存在が実に大きな役割を果たしていたようだった。

 中村文夫は、東京教育大学付属盲学校の高等部本科按摩鍼灸科へ進学して、グループから去って行ったが、しかし、残りの四人はしっかりとスクラムを組んで、ラーフボーイズの名にふさわしい活動を続けていた。私の知っていることでの活躍の一つに、昭和三二年(一九五七年)に、ラジオ東京の日曜の昼番組であった、丸石自転車提供の『素人のど自慢演芸会』に出場し、見事合格の鐘を鳴らし、自転車を一台もらったことで、安次嶺、西川、橋本、林の四人の名が電波を通じて全国に報じられた。

 更に、昭和三三年(一九五八年)の秋、東京のへレンケラー会館で行なわれた『全国盲学校音楽コンクール』に、埼玉盲の生徒達の出場した合唱が、第一位に入賞したことがあったが、その時もそのメンバーの中にラーフボーイズの四人が加わって、大いに貢献したようであった。

 それから二年後、私が静岡県立沼津盲学校の理療科教師として赴任した年に、ラーフボーイズの四人が十曲近い合唱曲をオープンテープに吹き込み、指導した元教諭の上竹信子先生のところへ郵送してきた。偶然私は、それを上竹家において信子先生と一緒に聞かせてもらった。その時の信子先生の喜びに満ちた明るい晴れやかな声が、このように書いていると、鼓膜の奥に今もなお鮮やかによみがえってくる。

文芸クラブの誕生とその活動

 私の過ごした埼玉県立盲学校の六年間の寄宿舎生活の思い出は、校舎内七号室でのものを含めて概ね楽しいものであった。何故かというに、それは余暇の時間を楽しく、心おきなく語り合う仲間達が何人もいたからである。そうした私の親しくしていた仲間達は集まると車座になり、各種の方面からいろいろな楽しい話題や、心を引きつけるような話題を見つけては語り合うのだった。

 その中で私達が一番たわいもないのに意外に、夢中になって語り合ったものがスポーツの話題と、ラジオから放送される歌謡曲を中心とした、人気歌手の歌番組のことであった。また『君の名は』や『この世の花』などの、連続放送劇や物語に関する話題は、それがずっと長く続いていただけに、今もなお楽しい思い出の一つとして私の心をなぐさめてくれる。そこで、その当時、放送されていたものを次に挙げると、子供番組としての菊田一夫の『さくらんぼ大将』、青木茂の『三太《さんた》物語』、北村寿夫《ひさお》の新諸国物語の『白鳥の騎士』『笛吹童子』『紅孔雀』『おてなの塔』『七つの誓い』など特に新諸国物語は多士多用の人物が登場、地域的に広範囲な物語であったので、強く興味をひきつけられたものであった。

 著者不明だが、世相の変遷を追う事件記者的なものとしての『新しい道』が注目を浴びていた。また、私個人の楽しみとしては、子供番組である南洋一郎《みなみよういちろう》の『謎の空中戦艦』とか、大衆時代劇である村上元三の『風流剣士』、それから米人作家エドガー・ライス・バローズの『ターザン物語』をよく聞いていた。

 私はそうした劇や物語を聞いているうち、私自身も何か一つ、劇や物語を書いてみたい思いに誘われたが、それは到底果せる望みではなかった。盲学校の周囲には春はうららかな心地よい風、夏は田んぼの蛙の声、秋には澄んだ虫しぐれなどという文学的な思索にふけるには、都合の良い恵まれた環境が存在していた。そこで文芸クラブを結成し、詩や短歌、俳句などを作ってみたいと思っている者は私一人ではなかった。

 埼玉県立盲学校での特殊教育活動の中のクラブ活動部門に、文芸クラブが誕生したのは昭和三十年(一九五五年)で、私が専攻科一年の春を迎えた年であった。その年、新設クラブに集まった仲間達は十人余を数えた。顧問は福沢、大原、福田の三人の教諭達だった。大原教諭は文学界という雑誌を資料に使い、国語の教科書には載っていない文学作品の概要やそれについての評論などを読み、且つ説明し、文学とは何か、文芸とは何かについて真面目な講義をしてくれた。福沢教諭は大衆庶民的な文芸や小説などを読み、且つそれについて語り、福田教諭は盲人関係の雑誌の中からエッセイや短歌、俳句、詩などを取り上げ、時にはそうしたものを上手に朗読する川口暁子に読ませた。

 三人の先生はそうした文芸作品に親しませ、私達にエッセイや詩、短歌、俳句などを作成する意欲を呼びさまさせてくれたのであった。その他にクラブの生徒達に時折、俳句や短歌を無記名で作らせ、それを提出させ、次回のクラブの時間にそれを発表し、どれが一番自分の気に入った作品であるか挙手をさせ、その数で順位を決めるという半ばゲームめいたことをした。また、提出した作品にそれぞれ適切な批評を加え、時には添削などをして指導し、私達の思索意欲を更に湧きたたせくれたのである。

 その他、このクラブでは、クラブの授業としての時間中にも、またそれ以外の時間にも吟行と称して、郊外に出て学校を取り巻く自然環境に浸り、俳句や川柳などを思索することもあった。

 昭和三十年度の文化祭には文芸クラブ員が舞台に立って、有名な詩人の詩や俳句や短歌などを朗読する他、部員の中の有志の作った俳句や短歌を披講した。私は、カールプッセの有名な詩『山の彼方《あなた》』を朗読したのであったが、最初、詩の朗読の経験がなかったので、なかなかうまくできず、福田教諭の指導のもとで川口暁子の朗読を聞いたりして、何度も繰り返し練習したものであった。広沢松江さんや斉藤誠寿《よしじゅ》の短歌を川口が披講していたが、その作品の豊かな感性に舌を巻いたものである。

 年度末には文芸クラブが中心となり、文化部の協力を得て、校内の児童、生徒から作品を集め、作品集を出したが、私は短歌三首しか載らなかった。

 クラスメイトで文芸クラブ員の渋谷三亀夫の随筆『授業二時間』は学生らしい快いさらりとした文章だった。また、鯨井一正《かずまさ》の「犬が吠える……」で書きだした詩は、冷静な人間の眺めた夜の一場面で、背筋がぞくっとするような客観的なリアルな描写で、これまでの盲学校育ちの生徒ではちょっと書けない、迫力のあるものであった。

 私が専攻科二年になった年に、文芸クラブは更に充実した。前年同様の活動の他に、前々から原稿を書いてはクラスの劇として発表をしていた渋谷三亀夫が、前年の『お祭り』という明るいホームドラマ的なものに続いて、田園的な風景と生活ぶりをバックにした『御日待《おひまち》』を書き、文芸クラブの作品として文化祭に発表することになった。渋谷の書いた劇『御日待』は、中流の農家の人たちの温かな人間味豊かな一日を、御日待の日という形でその模様を描いたもので、特に社会的にも思想的にも特徴のない一見単純なものなのだが、そこに何とも言えないローカルな懐かしさを醸し出していた。また近所の家同志、人間同志の心暖まる会話や行為がにじみ出ているものであり、その中にユーモラスな場面も時折出てきたりして、発表の折には観客をほっとさせるようなところがあった。

 この劇は、最初舞台劇の予定だったが、舞台装置の材料が揃わず、またその製作にも時間的に難しくなっていたので、やむなく朗読劇にしたのであった。

 それが見事に成功したことで、渋谷は、小学部の鈴木教諭に呼ばれ、多大な称賛の言葉をもらったようであった。法政大学文学部大学院修士課程を卒業して、埼玉盲の教師となった鈴木教諭は、文芸クラブの顧問ではなかったが、文芸とか劇の脚本などの研究に深く興味を持っていたようだ。

 それから、文芸クラブと言えばもう一つ雑誌『若鮎』の発行も忘れることはできない。これはクラブ員全員の作品が載せられた、いわゆるクラブ雑誌だったが、全員が執筆した作品としては上等なものであった。加藤や渋谷、福島の随筆、広沢と岩田の短歌、川村や石井の俳句、鯨井と福田の詩などは、顧問に一応の評価をいただくほどの素晴らしい出来映えだった。私は確かその時、『気の向くままに』という、だらだらとまとまりのない文章を書いた記憶がある。

 文芸クラブの二年間は専攻科での二年間でもあり、それはまたクラスの中で、放送劇などを製作して楽しんだ私にとっては、有意義にして最も充実した二年間であった。

 放送劇としては、昭和三一年(一九五六年)の秋に、関東地区盲学校放送劇コンクールで埼玉盲の演劇部の町島豊乃《とよの》、長根清平《ながねせいへい》などが出演した『指笛《ゆびぶえ》』が第一位に入賞するという栄冠を勝ち得たが、私もその劇を一度演じてみたいような気持ちにさせられたことなど、文芸クラブの思い出はつきない。

埼玉県立盲学校の校歌制定

 埼玉県立盲学校は昭和二六年(一九五一年)の五月に栗原育夫作詩、村田陽太郎作曲の「埼玉県立盲学校応援歌」を作成したが、それ以後、今度は校歌を作ろう、という二、三の話はあったが、実らなかった。その間に村田陽太郎教諭が昭和二七年(一九五二年)に横浜市立盲学校へ栄転してからは、そうした話も沙汰止みになってしまった。

 村田教諭についての思い出を少しばかり記すと、教諭は小、中学部の児童、生徒に自由に詩を作らせ、それに自分で曲を付けて生徒の前で発表し、音楽と情操教育とを組み合わせたユニークな方法を試みていた。だから、児童、生徒達はわずか二年ほどしか勤務していなかった村田教諭を心から慕い、音楽の時間を楽しむ者が多かった。そうした中で、村田教諭は「おやすみなさいお父様、おやすみなさいお母様」という童謡風の歌を作成し、寄宿舎の生徒達に聞かせたことがあった。この歌は寄宿舎の児童、生徒達が遠く離れた両親のことを思いやる、心温まるきれいな歌であった。が、私が寄宿舎生活を送っていた時は、現在のように寮歌のような位置付けで歌われてはいなかった。この歌が寮歌のように歌われるようになったのは、神明町に新寮が造られた頃からのようである。

 寮歌と言えば、実は応援歌を作詩した栗原育夫氏が、七五調の重みのある格調高い定型詩を書いて、昭和二九年(一九五四年)の夏期休暇に、当時生徒会の文化部長をしていた私のところに郵送してくれたことがあった。ところがその詩を、秩父の家から二学期の初めに寄宿舎へ持ち帰ってまもなく、どうしたことか紛失してしまったのである。それは二度ほど読んだだけのものなので、その詩の内容の細部にわたっての記憶は全くないが、旧制中学か旧制高校の寮歌のような形式のものであったように思う。せっかく彼が作った詩を不用意に紛失させてしまったことを、栗原氏にお詫びして許してもらったが、返す返すも残念に思えてならない。

 「校歌というものが欲しい……」という気運が盛り上がり、校歌製作の問題が改めて起こったのは、昭和三十年(一九五五年)の春頃で、加藤忠男が文化部長に、副部長に宗像怜子がなった年であった。加藤は宗像とよく繰り返し計画を練り、大原千鶴子教諭の指導を仰ぎながら、盲学校の教職員、児童生徒、その他に卒業生全員を対象に校歌の詩を募集したのであった。

 私自身も無理とは思いながらも、詩の作成に挑戦したのであった。しかし、結局は二学期末の締切までにものにならず、詩の作成は断念せざるを得なかった。

 昭和三一年(一九五六年)の一月の末の頃だったと思うが、小、中、高、専の各部の代表が一人ずつ選出され、校歌入賞作品選出委員会が開かれた。指導顧問は大原教諭と渡辺進教諭が責任者として加わっていたが、私もその会に専攻科の代表として参加したのであった。一同は宿直室に筆記用具を持って集まった。会は、お互いの挨拶の後、大原教諭の、校歌のための詩の募集締切以後の簡単な経過の話があって、更に作品の数などについて話が続いた。それによると、作品は投稿者が九名で、数は十一編ということだった。だから、結局は一人で二編以上提出した者がいたことになる。大原、渡辺両教諭は集まった児童、生徒の代表四人に向かって、

 「放課後の時間にお願いして申し訳ないね」

そうそれぞれ言った後、大原教諭が、

 「選出する方法は私が十一の作品を一つずつ読みますから、あなた方はしっかり聞いて、五点方式で思ったとおりの点を付けて下さい。勿論、言うまでもなく、最高が五点、最低が一点ですから、よく考えて付けてみて下さい。そして、皆さんのそれぞれの詩の総点数をこちらで控え、総点数の多い順から三位までまず選んでみましょう」

と説明し、投稿された詩を一編ずつ読みあげた。選出委員は詩が一つ読み終わる度ごとに、その詩に対しての評価をすぐに、五点方式で書き留めていった。

 十一の作品が全て読みあげられ、それぞれの作品の総点数を調べてみると、驚いたことに一位から三位までの作品は皆、卒業生の栗原育夫氏の作品だったのであった。順位と作者が明らかになった時、大原教諭が、

 「さすがに栗原さんは実力者ですね。名前を隠してこのように詩を読みあげて選んでみても小、中、高、専の皆さんが第一位から三位まで選び出すのですから、やはり大した方ですね」

と、幾分感動したような口調でそう言った。栗原氏の作品は他の投稿者にはちょっと失礼になると思うが、群を抜いて素晴らしかったのである。そこで、最後に栗原氏の了解を得て三つの作品を検討し、校歌を作成することになった。

 校歌作成委員会はそれまでの選出委員会のメンバーの他に、生徒側では文化部長の加藤と副部長の宗像《むなかた》が加わり、教職員側からは文芸クラブの顧問である福沢、福田の両教諭が参加し、新校舎の一教室を使用して放課後、何回か開かれた。そして、三月の初旬に現在歌われている校歌の歌詩が決定、放送で全校に発表されたのである。

 次に、作曲を誰に依頼するかが検討され、結局、埼玉県立川越高等学校の音楽教諭である、牧野統《まきのおさむ》先生に依頼することに決まった。

 四月下旬のころ、牧野統教諭から歌の譜面が届けられた。譜面が届くと、音楽科の上竹信子教諭はすぐに十数名の児童、生徒を選出し、グループを編成すると、埼玉県立盲学校の校歌制定披露のための会に向けて、歌を発表する準備練習を開始した。

 発表会の当日、即ち五月十五日はそんな日にふさわしく、五月晴れの明るい日だった。

 新校舎の三教室の境界壁を取り払い、特設会場が昼食休憩の時間に生徒と教職員の協力で造られ、たちまち午後のセレモニーの用意が整えられた。

 五時間目のベルが鳴ると、間もなく会場は全校の児童、生徒と教職員で座席が埋め尽くされた。会場の前側には作詩者と作曲者の貴賓席、校長、教頭の座る席と、司会進行者席が用意されたようだった。

 確かな記憶ではないが、司会進行は教員が受け持ち、発表に至るその日までの経過報告は、加藤に代わって文化部長になった木村功が行なったのであった。文化部長として校歌選定の行事にそれまで努力してきた加藤は、手術のため大宮日赤の眼科に入院していたので、残念ながらこの晴れのセレモニーの日には出席できなかった。

 セレモニーは式次第にのっとり進行し、作詩者栗原育夫氏と作曲者の牧野統教諭の紹介があり、続いて二人の挨拶があった。それから作曲者の牧野教諭がピアノに向かい、流麗なタッチで自ら作曲した埼玉県立盲学校校歌のメロディーを、一同に弾いて聞かせたのである。その日までに上竹教諭が選出した児童、生徒を集めて、そのメロディーを何度も練習していたのを私は聞いていたので、その日初めて聞いた訳ではなかったのだが、しかし、こうして晴れの発表会の会場でみんなと一緒に聞いてみると、またそのメロディーが、ひときわ感動的な曲として聞こえてくるから不思議であった。

 曲をひと通り弾き終わると、牧野教諭がもう一度弾きながら、今度は要所要所を自分で歌って説明と注意をし、そして作曲する上でやむを得ず詩の一部を書き改めたことを栗原氏に了承を求めていた。それから、栗原氏の了承を得た後、牧野教諭はグループに歌の指導を型どおり行なった。その時のピアノの伴奏は上竹教諭だった。

 型どおりの練習風景が終わった後、今度は会場の一同に一緒に歌うよう勧《すす》めた。そこで一同は元気よく起立し、牧野教諭の指揮、指導で上竹教諭のピアノの伴奏に合わせて、最初一節ずつ歌い、次に通して一番から三番まで三回斉唱したのであった。

 その様子を私の隣の席で眺めていた斉木事務長が、

 「牧野先生の風貌はちょっとベートーベンスタイルの髪型なので、やはり一見芸術家風に見え、指導ぶりも貫禄に満ちて立派に見えますね」

と、ささやいていたのが印象的だった。斉木事務長は、校内放送で名曲のレコードを聞かせてくれていた音楽愛好者である。

 斯《か》くして埼玉県立盲学校の校歌は制定され、セレモニーは無事終了したのであった。

校内臨床治療室の体験

 私が旧教育課程即ち、高等部五年課程の最高学年の専攻科二年になった年である、昭和三一年(一九五六年)当時の社会での事象を少し記すと、二月に戦後最初の出版社による週刊誌『週刊新潮』が創刊され、また原子力委員会は、四月に原子力研究所の用地を茨城県の東海村に選定した。

 一方、戦後十年を過ぎて教育内容等に、反動化的主張を明らかにしつつあった文部省は、十月に教科書調査官を設置し、教科書検定を強化してきた。スポーツ関係では、五月に第一回世界柔道選手権大会が国技館で開かれ、同じく五月に日本の山岳会マナスル登山隊が、ヒマラヤのマナスル八、一五六メートルに初登頂した。十一月には第十六回オリンピック大会が、二二日からの十二月六日までオーストラリアのメルボルンで開催された。ところが翌昭和三二年(一九五七年)の一月に、プロ野球界の名投手であったスタルヒンが、交通事故で死亡するという残念なニュースが報道された。更に同じ一月に芸能界の歌謡曲部門での人気絶頂だった美空ひばりが、浅草国際劇場で塩酸をかけられ、三週間の負傷をするという事件も報道された。

 専攻科二年の臨床治療室での私は、他のクラスメイトに比して、心の中ではやはり患者の治療ということに対し自信が持てなかった。というのは、前年の専攻科一年の時に体験した、四回の校外臨床治療実習の中で、私が刺鍼《ししん》した患者が二人ばかり、治療した翌日、刺激が過剰のために起こった筋緊張と、それによる痛みを厳しく訴え、

 「あなたに治療してもらって、逆に痛みと凝りが強くなりひどい目にあったよ」

と言われたことがあった。そんな経験があったので、私は患者を与えられるのがひどく恐ろしいような気がしてならなかった。治療室担当者であり、私の担当でもあった金子教諭は、私の技術面の程度と心の内面を知っていたためであろうか、最後に近い順番に私を回し、私の心の落ち着くのを待って、患者を与えてくれたのであった。

 私が最初に受け持った患者は、新井という姓の一見サラリーマン風の三十六、七歳に思える男性だったが、カルテをとってみるとサラリーマンではなく、農家の若主人で年齢も四十歳を越えていた。金子教諭はその患者を診察して、坐骨神経痛という診断意見を付けた。私は臨床治療室でのそれが、最初に受け持たされた患者ということで、過剰な責任感を意識したのか不思議な武者震いを覚え、背筋がぞくぞくしたのであった。金子教諭に促されて患者をベッドにうつ伏せにさせ、金子教諭の指示に従ってその腰から太ももの後、更にふくらはぎから足首に近いところまで撫で摩《さす》り掴み、あるいは圧迫してみた。患者をみて確かにそれは金子教諭の診断されたように、坐骨神経痛で腰椎の両側の筋が緊張し、腎兪《じんゆ》、大腸兪《だいちょうゆ》、次りょう《じりょう》、膀胱兪《ぼうこうゆ》、肓門《こうもん》、志室《ししつ》、小野寺臀点《おのでらでんてん》、殷門《いんもん》、委中《いちゅう》、承筋《しょうきん》、承山《しょうざん》などの経穴部位に圧痛が強く、坐骨神経の経路の諸筋に強い緊張が見られた。更に患者を仰向けにさせて坐骨神経伸展試験を行なってみると、ラセーグ症候が陽性で、患側の下肢は四十度ほどしか持ち上げることができなかった。

 「なるほど、これは典型的な坐骨神経痛だ」

私は自分自身にそう言い聞かせながら、あまり拇指《ぼし》で強く揉むことをせず、恩田教諭のよく行なう方式を真似て腰から太もも、ふくらはぎから足首を中心に、按撫法と手掌で軽く揉むことにした。二十分位その法を行なった後、寸三《すんさん》で二番の銀鍼《ぎんしん》を用い、先に記した経穴部と筋の緊張部の内、圧痛の軽い場所から先に刺鍼していった。一本、一本極《ごく》丁寧に私なりに注意深く処置したのである。

 治療が終わった時は一時間を少し回っていた。緊張のためであろうか汗がじんわりシャツの下ににじみ、口も渇いていた。

 患者は一日おきに来校した。四回目を迎えた時、最初四十度未満であったラセーグ症候の痛みが、六十度まで下肢を持ち上げられ、八回目を迎えた時には、既に八十度未満にまで下肢を持ち上げても痛みを訴えることがなくなり、また、圧痛部も軽減し、我ながら治療の効果に驚き呆れる思いであった。九回目になった時、患者が、

 「大分良くなりましたね。どうですか、あと一、二回来ればいいでしょうか?」

と明るい声で言ったので、金子教諭に再診察してもらい、あとどれ位の回数、治療すればよいのか指示を仰いだ。すると、金子教諭は患者の状態をみて、

 「おお、これは良くなったね。お手柄だな。あと二回ほど治療すれば良いだろう」

と満足そうにそう言い、私の肩をポンと一つ軽く叩いてくれた。

 最初の患者で思いがけない好成績を得た私は、ようやく治療室での仕事に落ち着きのようなものが出て、それからの患者には注意をしながらも、ある程度の自信めいたものを持って、治療することができるようになっていった。私にそのような変化を与えてくれたのは、金子教諭の直接的な指導もあったが、時折、治療室にみえる恩田教諭の技術的な臨床指導も大きく影響していた。

 それにはこんなことがあった。

 いつ頃だったか記憶にはないが、斉藤という女性の患者の交通事故によって負傷した、左肩関節《けんかんせつ》と同側の肘関節《ちゅうかんせつ》の治療をしていた時のことであった。未熟な私にはそれらの関節の運動を、他動的に十分に動かすことができなくて困っていた。その時、恩田教諭にそのことを話すと、恩田教諭は、

 「関節運動は動かそうと思ってやっきになって動かすと、なかなか動かないもので、患者に苦痛を与えぬように心掛けながら、患者にも協力してもらって動かせば結構動くものですよ」

と言われ、患者の左肩関節と同側の肘関節をゆっくり触診し、軽いマッサージをほんのわずかな時間行なった後、硬く縮んでいた関節に手を掛け、静に動かしていたが、やがてそれらの関節を他動的に見事に運動できるようにさせてしまったのである。私はその恩田教諭の卓越した技術を目の当たりに見せられ、

 「すごい技術だ。長年の研究と手練がなければとてもできないことかも知れない」

と心の内で叫んだものであった。

 また、私はその頃、学校の図書の中にあった、富士根園点字出版所発行の、代田文誌《しろたぶんし》著『鍼灸治療総論』『鍼灸治療基礎学』、東京点字出版所発行の『鍼灸治療臨床学』などの点字書を参考にしたことも大いに役立った。

 一年間で十余名の新患を受け持ち、治療し、その三分の一ほどの患者を治癒させたことは、私にとっては学理的、技術的にまた心理的にも大きな収穫であった。私にはとても無理だと思われ、悲観ぎみであったかつてのことを考えると、患者の治療ができるということは大きな喜びであり、患者の苦痛を、その肉体や心から取り除くことができたということは、私にとっては最大の満足すべき事象であった。

 この喜びを誰に感謝してよいかわからぬ心地であったが、強いて言うならば、鍼の技術の至らぬことで完全に落ち込んでいた私を励ましてくれた、恩田教諭の言葉が大きな助力になったのであろうと考えている。そして、不器用は不器用なりに、工夫すればどうにかある程度のところまでは行くものだと、しみじみそう実感したのであった。

特設教員養成部の受験

 私が専攻科一年になった昭和三十年(一九五五年)は、中村、川口、岩内の三人が、東京教育大学付属盲学校の高等部本科按摩鍼灸科へ進学するための、受験勉強に頑張っていた年であった。三人はもともと頭脳も学力も一定の力量があったので、挑戦は容易なものと考えていた。三人は慎重の上にも慎重に、勉強と努力を重ねていた。

 私はそんな彼らの学習ぶりを見て、なんとなく羨しいような思いが胸の中にたぎり始めていたのだった。しかし、普通科目にぜんぜん自信がなかった私だったので、進学ということは最初は全く考えていなかった。家が旅館業をしていたので、経済的にはある程度の余裕があるであろうと考え、やがては開業のための治療院の一軒位は造ってもらえるだろう、とそんな甘い気持ちでいたのだった。だから、専攻科に進学した当初は、もう二年間卒業までの時間を、技術面の修練を主として考え、日々を送っていればどうにか卒業はできるだろう、とそんな風に考えていた。ところが、卒業して故郷の秩父へ帰って開業するということが、そのうちなんとなく気が進まぬようになってきたのだった。確かに秩父の山や川という豊かな自然と接触し、秩父の風土そのものに親しむことを、決して嫌うものではなかったが、若い私とそこに住む人達との、治療者としての人間関係を主とした精神生活ができるかどうか、今一つ疑問だったからである。そんなこともあったので、私は秩父から離れて、どこか他県での生活を夢見るようになっていったのである。

 そんな時、川口、岩内、時には中村の、勉強のお手伝いというよりは話相手になっている内に、私も教員になれないだろうかという誠に厚かましい思いが、いつか胸の中に宿るようになった。しかし、たまたま理科の知識が彼らよりわずかに勝っていたり、数学の方程式や三角函数が少しばかり解けたり、あるいは地理や歴史について以前視力があったから、それらに関する諸書を少し読んでいたということで、彼らより優位だったとしても、もともと力量不足で、特に国語と英語はほとんど問題にならぬほどお粗末な学力だったので、受験しようと思う方がむしろ無謀だったかも知れない。

 だが、彼ら三人と付き合っているうちに、次第に教員への思慕が強くなっていき、我ながら驚くほどにそれが高まってきたのだった。そこで私は、基礎知識、基礎学力のないことを知っていたので、基本に立ち返り中学部程度の下学年の学習から復習を開始したのである。そして、一年ほどでようやく高等部の普通科目に取りかかることができ、それに理療科の受験科目の学習を加えることにしたのであった。

 中村、川口、岩内の三人が昭和三一年(一九五六年)の三月に付属盲の受験に挑戦し、見事にパスした頃には私もすっかり気持ちを固めていた。上竹信子教諭が、かつて宮城県立盲学校に勤務中に指導した女生徒で、その年特設教員養成部の受験に合格した人から取り寄せてくれた入学試験問題を見て、更に意志を強くした。

 付属盲へ進学した三人の仲間を失った私は、一時自分だけが取り残されたような思いがした。しばらくの間、気がつくと夕食後、ただ一人で麦畑の細道を悶々と歩いていたことがあった。しかし、専攻科二年になった時、私は一応自分の進路を、東京教育大学教育学部特設教員養成部理療科への進学と明確にし、担任の金子教諭には、一応話して決意を新たにした。

 その当時の、東京教育大学教育学部特設教員養成部の受験科目は、理療科、音楽科は共に普通科目と専門科目に分かれており、私の受験しようとしている理療科の普通科目、専門科目は次のとおりであった。

 まず、普通科目から記すと、理科は生物学、化学、物理学、地学のうちから二科目選出、数学は解析学1、解析学2、一般数学、幾何学のうちから二科目選出、社会は日本史、世界史、人文地理、一般社会のうちから二科目選出、外国語は英語、ドイツ語、フランス語のうちから一科目選出、それに国語の計八科目だった。専門科目は、基礎医学として解剖学、生理学、病理学、衛生学の四科目、臨床医学として症候概論、治療一般の二科目、実技の理論として鍼、灸、按摩、マッサージの四科目があり、理療科はその他に実技試験として按摩、マッサージ、鍼、灸の実技の試験があった。学科だけを見ても普通科目が八科目、専門科目が十科目の計十八科目という大量の受験科目であるということを知った時、私は思わず吐息をついてしまった。特に普通科目については、最初この八科目をどう選出したらよいか大いに迷ったものである。

 何故かというと、どれもが自信がなく、どう手を付けて良いかわからなかったからである。しかし、いつまで考えていても仕方がないので、まず国語と英語の二科目はすぐに決め、次に社会を世界史と日本史の二科目に決めた。数学は多少自分ではすぐに手のつきそうな学科だと思い込んでいたので、却って選出するのに時間を要したが、結局は解析学1と解析学2の二科目を選出した。選出に一番苦労したのは理科だった。四科目のうち、まず化学は短期間のうちに決めたが、もう一科目に時間がかかった。

 生物学の活字書の資料が手に入ったので、最初生物学を選出しようと思い、JRC活動でほとんど毎週の日曜日に、学校を訪れてくれていた田所貢《たどころみつぐ》氏に午前中二時間、その資料の朗読サービスをしてもらっていた。ところが、田所氏の都合で朗読サービスが難しくなったことと、記憶するべき事項があまりに多かったので、思い切って選出科目を変更し、物理学を選出することにした。とは言っても、物理も決して得意な方ではなかったので、五月の下旬頃から東京理科大学の学生である、下田氏に家庭教師を依頼し、毎週二日二時間ずつ、主として物理学、一部化学を教えてもらうことにしたのである。

 その他に、数学も英語も不安だったので、毎週土曜日の午後帰省し、その日の夜は数学を、翌日曜日の午前中は英語をそれぞれ二時間ずつ、知人の大学生に依頼し教えてもらったのだった。

 そうしたことで、私の受験勉強のスケジュールはおよそ次のような形で落ち着いた。即ち、一日の授業が終わった後の放課後、夕食までの時間と夕食後の自習時間を、普通科目の勉強に当て、午後九時から十二時、早朝の四時半から六時半までを、理療科目の勉強の時間に当て、出来得る限りそれに順守することに努力したのである。

 私がそうこうしている間に、社会情勢の変化として六月に、沖縄では軍用地に関するプライス勧告要旨が伝達され、後に全文が沖縄に到着した。そこで反対運動が各市町村ごとに起こり、住民大会が開かれた。十月には、砂川基地に関する第二次測量の強制実施が行なわれ、警官隊と、地元反対派・支援労組・学生が衝突し、二六四人が負傷するという痛ましい事件となった。

 翌三二年(一九五七年)の二月には、石橋短命内閣に代わり、岸信介内閣が合法的に成立したが、全閣僚が留任するということで、いささか釈然としない思いが国民の中に残された。しかし、その詳しいことについては、受験勉強中の私にはほとんどわからない状態であった。

 昭和三二年(一九五七年)の三月一日から三日までの三日間、予定通り東京教育大学教育学部特設教員養成部の入学試験が、雑司ヶ谷の付属盲学校の講堂で行なわれた。最初の一日目は普通科目で、まず九時から国語の試験が行なわれた。スチーム暖房がほとんどまだ効力を発していなかったので、講堂内の空気は冷たく、指先が点字を読み取りにくかった。四、五枚の点字問題が綴じられた国語の問題用紙をドサッと置かれた時、その量の多さに仰天し、私は思わず小声で「えーっ」と叫んでしまった。規定時間の一時間が終わった時、三分の一も出来ていなかった。

 「だめだ、これは」という弱音が早くも私の脳裏をかすめていった。三十分ほど休憩時間があり、今度は数学の試験が始まった。数学は自分では得意な学科だと思っていただけに、問題を見た時その難問に肝をつぶした。

 「これはいけない」という弱音がまたまた脳裏をかすめた。解析学1、2ともに三題中一題ずつしか解けなかった。ショックで、めずらしく昼食が腹に収まらなかった。昼食休憩の時、岩内、川口の二人が激励に来てくれたが、気分が沈滞してほとんど話をする気になれなかった。午後の社会科の日本史、世界史はそれぞれ三分の二ほど書けたが、理科の物理学と化学はやはり、それぞれ三題中一題ずつしかできなかった。

 一日目のスケジュールが以外に遅れたこともあって、英語は翌二日目の九時から開始されたが、英語は惨たんたるもので、三題中一題も満足にできなかった。熟語の問題は五つのうち三つしか書けなかった。従って、普通科目の範囲での私の合否の判断では完全に不合格のラインであった。

 二日目の十時半からは二時間をかけて基礎医学科目、午後二時間をかけて実技の理論科目の試験が行なわれた。出来たのは五分の三程度であった。

 翌三日目の九時から、一時間をかけて臨床医学科目の試験を行ない、二日間にわたって理療科の専門科目の学科試験が無事終了した。私の判断では、理療科の専門科目は半分ほどの出来映えのように思えた。

 三日目には、臨床医学科目試験の後、鍼、灸の実技試験と按摩、マッサージの実技試験がそれぞれ別室で行なわれ、最後に特設教員養成部長を中心とした、数名の試験官による面接試験が行なわれ、三日間における受験の全行程が終了したのであった。

 ちなみに、理療科の学科の問題は次に記すように、そのほとんどが一教科一問であった。即ち解剖学は(関節の構造について記せ)、生理学は(自立神経繊維について記せ)、病理学は(アレルギー病について述べよ)、衛生学は(消毒法について述べよ)、症候概論は(ワゴトニーについて述べよ)、治療一般は特に二問あって、一問は(X線療法についてのべよ)、もう一問は(冷浴と温浴の相違について)であり、更に、鍼理論は(最近における鍼に関する二大学説を述べよ)、灸理論は(東洋医学としての灸術の特質について述べよ)、按摩理論は(按腹について述べよ)、マッサージ理論は(圧迫法について述べよ)であった。

 三日間の受験日中を振り返ってみると、全体的に私の初挑戦は未熟なためか、終始振わず、落ち着きのないままに終わったような気がする。そんな私に比べて、付属盲学校からの受験生や大阪府立盲学校の受験生達は、発言にも態度にもどことなく余裕を見せていた。特に、私と机を並べて受験した付属盲学校の竹村実氏は、落ち着いていて、受験場に慣れない私にいろいろ親切に振舞ってくれた。その竹村氏が、

 「今日一日で受験の結果が決まるな」

と、受験日の二日目の理療科の試験の前に、さりげなくそう言ったのが、沈滞していた私の心にずしりと重く響いた。

 また、実技試験の順番を講堂で待たされている時、受験生の多くが自分のこれまでの奮戦ぶりを述べていたり、またこれからの実技試験の予想を、いろいろ語り合っているのを聞いている時も、私は自分の未熟さをしみじみと意識させられていた。その中で付属盲学校の田中禎一《ていいち》氏と、どこかの盲学校の受験生とが、経穴名を早口で言い合う競走をしていたが、そのスピードには驚嘆した。

 私はその時の受験番号は十八番だったので、出掛ける前に青木が、

 「一《いち》か八《ばち》かの勝負というにふさわしい番号ですね。これならうまくいくかも知れないですね」

と言ってくれた言葉を、私は付属盲学校から女坂と言われているだらだら坂を下りながらふと思い出し、試験の出来映えの悪さに一人苦笑を禁じ得なかった。頭上からは、うららかな春の日ざしがやわらかく感じられたが、私はその下を大手を振って歩ける気分にはとてもなれなかった。

 池袋から東上線の寄居行の電車に乗った時、突然私の受験準備に関する資料作りとしての、転写の仕事を手伝ってくれた山中栄子《えいこ》、金子なよ子、飯島よしのことが思い出された。特に山中は、私が最後の専攻科二年の年に寄宿舎生だったので、よく日曜日などに二、三時間、点字書の速読《はやよみ》のサービスをしてもらったりして多大な協力を得ていた。私は、それらの後輩達にも、良い結果が得られそうもない状態だったので、申し訳ないような気がしてならなかった。

 合否の結果の発表の日は三月十七日だと聞いていたが、奇しくもその日は私の二十六回目の誕生日だったのである。

さらば埼玉県立盲学校よ

 昭和二六年(一九五一年)私が埼玉県立盲学校へ入学してから過ごした六年間は、三十数年間経った今でもその当時のことを振り返ってみると、不思議にもその大部分の事柄についてそれほどの大きな誤りもなく、まるでつい最近の事柄のように鮮やかに思い出されてくる。そして、それは私の視覚障害者としての、精神的な成長に大きな意義ある年月であったとしみじみ思うのである。そのようないろいろな事柄を懐かしく思い浮かべながら、私はここまで書いてきたのであるが、それらを総合して考えてみると、私は埼玉県立盲学校の生徒時代は、児童達、生徒達即ち仲間達に男女を問わず恵まれていた、幸せな学生生活を送ることができたように思えるのである。

 毎年の卒業式やいろいろな行事に参加したり、また先輩達と特に親しく語り合ったりした。残り少ない放課後の時間を、先輩達と学校の周囲を散歩したりすると「やがて自分の上にもこの日がくる」という思いが強く意識させられるのだった。だから、卒業してゆく先輩達や、進学などで転校して行く人達を招待して行なう送別会の時は、仲間達と一緒に、大して働きのよくない頭を使って、いろいろなプログラムを考えたりした。そうしたプログラムのもとに進行していく送別会の席で、先輩諸氏や転校して行く人達一人一人の言葉を聞くと、「別れの時が来たんだな」という思いが強く胸を締め付けるのだった。

 しかし、そうした感動的な一時はあっても、実際、自分が卒業の時を迎えるまでは、自分と周囲のあらゆるものとの関係や関わりについて、多少の意識はあったにしても、自分はまだこの学校にいる大勢の仲間達と共に生活していくのだという意識があったと見え、それでプログラムを混乱させるようなことはなかった。だから、送別会は学校においても、寄宿舎においても、その時に応じて比較的スムーズにうまく進行できた。

 今、そうした送別会の中で一番強く記憶に残っているものは、昭和二九年度の送別会で、私が司会をして進行していった『ピヨピヨ大学』というクイズがあった。ご承知の方もあると思うが、このクイズは、その当時ラジオ東京の土曜日の夕方放送されていたものを、私が取り上げたもので、これはある一つの問題を、司会者があらかじめそこに並んでいる雄鶏《おんどり》、雌鶏《めんどり》、チャボの三博士に問いかけ、それらの三博士にその問題に対して、それぞれの立場で最もらしい解答をしてもらい、クイズの解答者にはその三博士の解答のうち、どれが正解かを当ててもらうという比較的格調高いクイズであった。

 解答者はラジオ放送と同様二人一組とし、一人を教職員の中から、もう一人を児童、生徒の中から希望者に出てもらうことにした。この時の雄鶏博士は、その年度の卒業生の新井勘七、雌鶏博士は若い声のきれいな木下みちこ教諭、チャボ博士は中学部二年の記憶力のいい金子作次郎《さくじろう》になってもらった。これは、その問題が自然科学、社会科学、時には文学などの広い範囲にわたっていたものなので、問題を作成するのに非常に苦労した。どの場合でもそうであろうが、クイズを出す側の方は気楽で良いが、出される方は容易ではない。私もこれには苦い経験がいくつかある。が、この『ピヨピヨ大学』に出場した解答者は素晴らしく、大部分の解答者が正解を答えていた。

 先輩を送る送別会と違って、自分が送られる送別会は、さすがに万感こもごも胸迫る思いがあった。生徒会顧問や後輩達の言葉の一つ一つに思い出が蘇って、まぶたの裏に熱いものがにじんでくるのを覚える。しかし、そのような状態であっても、私の心の内のどこかに何故かまだ学生気分がすぐに消えそうにない、ある種の感情めいたものが残っていた。というのは、その時の私は、もしかしたらこの後も、まだ別なところで学生気分に浸ることができるかも知れない、という愚かな想像をしていたからである。

 送別会のあったその日は、昭和三二年(一九五七年)の三月十七日で、私のなんと二十六歳の誕生日だった。だからという訳ではないが、卒業生が一人一人御礼をも兼ねた別れの挨拶をした後、いよいよ私の番になったとき、思い出を述べた後、

 「これからの私は人を愛し、また人から愛される人間になりたいと思っています」

などというキザな言葉を吐いたものであった。

 私と一緒の年に卒業し、学校を去って行く高等部本科三年の高橋宏は、

 「これからはいよいよ私の、待ちに待っていた日々を迎えることになりますが、私はその中で大いに自由に振舞い、一治療師として仕事ができるのを楽しみにしています。苦病に悩む患者のために、また自分自身のために一所懸命働けるかと思うと、本当に嬉しく思います」

と、晴れやかな明るい声で挨拶をしたのが印象的だった。彼は昭和二三年(一九四八年)の一月施行の、あはき法二一七号の法律のできる前に既に検定試験を受験し、按摩師と鍼師の免許を取得し、職業人として生きることができるにも拘わらず、まだ若いということと、せめて高等学校卒業程度の学歴と教養を修めたいということで、盲学校へ入学し、卒業の年を迎えたからで、誠に敬服すべきことであると感心させられた。

 飯島よしと成川米吉《なるかわよねきち》は、その年中学部三年の課程を卒業し埼玉盲を巣立ち、その当時国立東京光明寮という名称だった、厚生省管轄の杉並区の馬橋《まばし》にあった、主として途中失明者の更生のための施設の、理療教育課に入所の予定が決まっていた。この二人も送別会で同様に立ち上がり、自分の進むべき未来への道に対しそれなりの展望を語った。

 午前中の送別会に続いて、午後は私達卒業生の主宰した謝恩会が行なわれた。謝恩会の席では卒業生の中で私が一番年長者だったということで、一同から司会進行の役目を仰せ付かった。最初、校長を始め生徒会顧問や各学部の主任の挨拶があり、続いて卒業生一人一人の挨拶があった。その後は午前中の送別会の時と同様、歌や隠し芸が教職員や各学部の卒業生の中から披露された。思いがけない人物の歌や名演技が披露され、会は大いに盛り上がり、楽しい会となったのだった。

 ただ残念だったのは、その日が土曜日だったこともあって、教職員側の参加者の大半が会の途中で会場から去って行ったことだった。勤務時間ではないので私達も強制することはできなかったが、できることなら卒業生にとっては一生に一度の、しかも教職員達と親しく且つなごやかに過ごすことのできる、最後の会でもあるので、おしまいまでお付き合いをしてほしかったと思ったのは、私一人ではなかったであろう。

 謝恩会が終了し、何となくむなしい気持ちを抑えながら、会場の後片付けをして校舎内の七号室へ帰ってしばらく経つと、私に「残念ながら教員養成部は不合格故、次回への健闘を祈る」という友人からの電報が届けられた。受験の終了直後からそうであろうと承知してはいたが、改めて電報でそう告げられると、やはり悲しさと寂しさと残念さが心の内に一度に広がってきて、その夜は心が痛んでほとんど眠ることができなかった。

 眠れぬままの時間の中で、私はその日の午前中の送別会や午後の謝恩会の模様とか、暖かな快い春の日の中での、昼食時に交わした友人達との楽しい語らいなどを次々に思い浮かべていた。それに、その日が私の二十六回目の誕生日でもあったので、楽しい一日だったことも思い出されてきた。そうした数々の楽しいことが続いた一日だっただけに、不合格の通知は私にとっては大きな衝撃だったのである。まさに天国から地獄へころげ落ちた一日であった。

 そんなことだったので、翌日の日曜日も暖かな上天気だったにも拘わらず、私の心の内はすぐには晴れなかった。やり場のない手持ちぶさたのような気持ちで、一日中を過ごしてしまった。力不足だったということはわかっていたのであるが、やはり悔しさ、残念さはすぐには消えなかった。涙こそ流さなかったが、悲しいことは事実だった。

 視力があればそう見えたであろう麦の青さが目立ってきた畑のあぜ道を、白杖を振りながら、午後のひととき、私は諸々の気分を静めるべく一人歩きの時間を過ごした。

 夕食後、鯨井が私をそれとなく誘ってくれたので一緒に町へ行き、太陽軒という店に入りビールを飲んだ。やけ酒という気持ちは少しもなかったが、ほろ苦い液体がのどを通り過ぎた時、不思議に心がなごみ、落ち着いてきたのを覚えた。こっそり飲んだ何杯かのビールだったが、何故か少しも後めたい思いはなかった。校舎内七号室の仲間達に迷惑を掛けない程度に快く酔って、なお町中を散歩し寄宿舎へ帰った。

 その翌日は卒業式の前日だったので、校舎内清掃と校庭の除草を一、二時間目に行ない、三、四時間目に卒業式の練習をした、午前中で放課となった。弱視の友人の言によると、空は薄曇りのようだったが、春らしく決して寒くはなかった。

 その日の夕食時には、夕食を兼ねて寄宿舎の送別会が行なわれたが、六年間も寄宿舎生活をおくってきただけに、その会は忘れられないものとなった。会は鯨井一正《かずまさ》の司会進行で、まず校長の挨拶に続き、舎監長の恩田教諭の激励の言葉があったが、恩田教諭はその言葉の中で、

 「人生を歩むには本能の生活、労働の生活、感情の生活、そして信仰の生活というこの四つの生活を適宜にバランスよく組み合わせ、その意義を知りつつ歩んで行くことをあなた方に望みたい」

という人生の四部合唱について切々と語られ、卒業生へのはなむけの言葉として最後を結ばれたのだった。それから、次に広沢松江さんを始め、大滝順治《みちはる》、岩田次郎、宗像怜子、成川米吉《なるかわよねきち》それに私を含めた寄宿舎を去る者が次々と立って別れの挨拶をした。その時私は、もう養成部受験の不合格のことは明らかになっていたので、そのことについても挨拶の中で触れ、寄宿舎における生活の思い出を語った後、最後に、

 「私は力及ばずして今回の受験に不合格になり、目的を達成することができませんでしたが、来春にはまた再挑戦を試み、目的を達成できるようこれからの一年を秩父へ帰って頑張りたいと思います。皆さんもどうか健康に注意しながら、未来への目的を持って頑張って下さい。秩父の里におりますから、そちらの方へ来られた時は、是非私の家にもお立ち寄り下さい。お待ちしております」

と言って別れの言葉に代えたのだった。

 型通りに第一部が終った後、祝膳となり、続いて歌や隠し芸が披露された。後輩達が心から私達に対して思い出を語ってくれ、私達がかつて寄宿舎の中で盛んに歌った懐かしい歌を次から次へ歌ってくれた。その中で小学部一年の並木久江の、まるで童謡歌手のようにきれいなあどけない声での歌が、特に印象深く残っている。

 寄宿舎の送別会は、学校の送別会の時より後輩一人一人に、身近な仲間意識を強く感じていたので、胸迫る思いに時折絶句してしまうことがあった。別れに一つ歌を歌うように司会者から勧められた私は、最後の歌として、かつて作詩、作曲したけれど一度も公の席では歌わなかった「埼盲高等部応援歌」を小松博のピアノ伴奏で声張り上げて歌った。

 二時間ほどの寄宿舎の送別会が終了した後、私は男女寮の各部屋を一部屋一部屋訪れ、後輩達の声を一人一人聞き、握手を交わし、楽しい思い出深いひとときを過ごした。そうした中で、既に小学部の上学年や中学部に進んだ後輩達は皆、かつて私が八部講談という半ば冷やかしめいたことを言われながらも、話し続けた数々の冒険物語や時代小説の話のことを、懐かしい思い出として語ってくれたことが嬉しかった。

 午後十時に消灯の鐘が鳴ったので、私は去り難い思いを意識しながら、校舎内七号室へ帰り床を敷き、それからかつて先輩の新井勘七氏がそうしたように、旧校舎、新校舎内をほぼ全域にわたって歩き、思い出深い要所要所を撫で摩り、別れの言葉を答えなき相手に投げかけたのだった。

 翌日は卒業式が行なわれる当日だった。新校舎の三つの教室の間の境壁を取り払って作った特設講堂には、弱視生の言によると参加者のための全ての座席が用意された。前方には小さなステージ用の壇が設けられ、壇上の机の上には季節の花々が飾られてあった。式場としての用意がすっかり整えられていたようだった。

 その日は、よく答辞の冒頭などに書かれている「春風駘蕩梅花舞い散り、春の日のうららかに降り注ぐ……」という飾り文句にぴったり当てはまるような卒業式日和だった。

 式は午前十時から開始され、卒業生の呼称と卒業証書の授与に続き、校長を始め来賓の挨拶、続いて記念品の授受、送辞、答辞などがそれぞれ式次第に従って行なわれていった。そうした中で、在校生代表の送辞と卒業生代表の答辞は、前年まではそれほどの感動も受けず耳にしていたものであったが、自分が卒業する日を迎えてみると、この日ばかりは送辞、答辞のその一言一言が、胸に染み透ってくるのであった。

 式は一時間十分ほどで終了した。感涙にむせぶようなことはなかったが、胸中に不思議な説明し難い空虚感を覚えたことは事実であった。本来ならば卒業するという喜びに歓喜し、満たされた充実感に浸り、これからは自分自身の思うがままに生きられる、という自由を勝ち得た満足感を覚える、そんな気分になるのだろうが、何故か私にはそんな気分にはなれなかった。恐らく、その根底には特設教員養成部の受験に失敗したという無念さが、まだくすぶっていたことが、その大きな要因の一つであったろうが、しかし、その他にも卒業はするものの、卒業後は当面何をどうしてよいかという、漠然とした不安が更にその奥に広がっていたからであろう。

 とにかく、ただ式が終了したことで、ほっとした。

 式の終了後、十五号教室で担任の金子十三松《とみまつ》教諭を囲んで、最後のホームルームを行なった。晴れの卒業式が終了したこともあってか、クラスの者は皆一応リラックスしているように見え、声も弾んで明るかったが、その胸中には皆恐らく「さらば埼玉県立盲学校よ」という母校との別れの何とも言いようのない物寂しいような思いが、言葉にこそ出してはいなかったが湧いていたのに違いない。

 金子教諭から、渋谷、山下の開業を始め、私を除いた他の六人のクラスメイトの卒業後の進路が説明された時、我が身のみじめさがまたまた胸中を通り抜けて行った。金子教諭が、

 「最後に大嶋君のことだが、残念だったけれど、また再挑戦すると言っているから今度こそ合格してもらいたいと思う。では、みんなお互いのこれからの進路の成功を祈り合おうではないか」

と言って、一同に激励の言葉を送ってくれた。最後のホームルームの時間を終えて、その日一日の行事予定の全てが終了したのであった。

 その後の私は、二日後にクラスメイトと共に鍼師、灸師の検定試験を受験し、郷里の秩父の家に帰った。故郷の秩父は春なのに冷たい寒い風が吹いていた。

 その翌年昭和三三年(一九五八年)は、私にとって、ようやくあたたかな希望に満ちた春となった。

埼玉県立盲学校校歌

栗原育夫 作詩

牧野統《おさむ》 作曲

一 雲くれないに明け渡る

  空の光はいや冴えて

  教えの声のひびきにも

  湧きてあふるる師の慈愛

  ああ恵みをうけてむつみつつ

  きわめんわれら真理の道を

二 刻む歩みに保己一の

  まこと心をうけつぎて

  緑に映える武蔵野に

  ほまれ輝くわが母校

  ああ正義の理想求めつつ

  磨かんわれら天賦《てんぷ》の業《わざ》を

三 秩父の嶺を仰ぎみて

  高き文化を慕うとき

  心にともるかがり火を

  共にかざして進まばや

  ああ楽しき自治を築きつつ

  担わんわれら聖《きよ》き使命を

栗原育夫 作詩

村田陽太郎 作曲

一 赤間の流れ澄むほとり

  雄姿輝く学園に

  心豊かにはぐくまれ

  秩父の嶺の果て遠く

  今躍進の道をゆく

  励め埼盲健男児

二 仰ぐ氷川の森高く

  精気の朝の陽《ひ》はのぼる

  母校をこぞる励ましの

  力に熱にこたえつつ

  おおしく強くたくましく

  立てよ埼盲健男児

三 すさぶ武蔵の野嵐に

  試練の波はいくたびか

  今修練の実を結び

  あがる勝鬨《かちどき》この凱歌

  大関東の天をつく

  その名埼盲健男児

埼玉県立盲学校寮歌

村田陽太郎 作詩作曲

一 冷たい風の吹く夜は

  遠いおうち思い出す

  今は休みの鐘が鳴り

  私は床をしいてます

  お休みなさいお父様

  お休みなさいお母様

二 夕餉のあとで妹と

  積み木のおうちこしらえて

  遊んだ夜もありました

  今夜はそれの夢かしら

  お休みなさいお父様

  お休みなさいお母様

三 私が寝ても母さんは

  まだお仕事をしてました

  今夜は寒い星の夜

  おかぜを引かねばいいけれど

  お休みなさいお父様

  お休みなさいお母様

四 どこか遠くで犬の声

  雨戸が風に揺れてます

  隣のお部屋のお友達

  みんな静かに寝たようだ

  お休みなさいお父様

  お休みなさいお母様

あとがき

 昭和五九年(一九八四年)の終戦記念日に、私にとっては初めての著書となった、私の過ごした幼少年期の十五年戦争時代の記憶『少国民と呼ばれたあのころ』を発刊しました。弱視であった私の、戦時下における少年時代の生活状況を紹介したものです。

 その当時、それを読まれたある友人から、

 「今度は、埼玉県立盲学校の、生徒時代の思い出について、何か書いて見ないか」

とすすめられたことがありました。

 一冊の本を出したばかりの私は、いく分、上機嫌の時でもあったので、それについてすぐに書いてみようかと思いました。

 しかし、日記というものを書く習慣を持たない私には、その当時の状況を懐古しても、資料になるものは、おぼろ気な記憶以外には何もありませんでした。ですから友人にすすめられてはみたものの、思うように点筆を走らせることができず、いつの間にか数年が過ぎてしまいました。

 ところが三年ほど前に、かつての同僚の一人から、偶然『埼盲沿革史』という、年表を中心に記された小冊子をもらい受ける機会を得ました。それをもとにして、私の過ごした埼盲時代の六年間の記憶を呼び起こしながら、書き始めてみました。

 それは、私が長年勤務していた、埼玉県立盲学校を定年退職した、平成三年(一九九一年)の五月初旬の頃でした。

 ここに私が書き連ねた数々の思い出は、私自身の記憶の他、多くの友人達が提供してくれた、彼等の記憶に助けられながら書き、史実として知られているものについては、関係資料を参考にし、記憶を再確認しつつ進めていきました。

 資料として、埼玉県立盲学校編『埼盲沿革史』、原田勝正《かつまさ》編『昭和の歴史』の別巻『昭和の世相』、医歯薬出版社編『按摩・マッサージ・指圧師、鍼師、灸師等に関する関係法規』、それに西岡恒也編『全視協二十年史』を参照させてもらいました。

 私自身、十七歳の多感な時期に、不運にも手術の失敗から、完全失明したものの、県立盲学校へ入学するまでは、他力本願的な世間知らずで、きわめて気楽な毎日を送っていました。

 ですから、県立盲学校においての勉学と、生活のリズムに慣れるまでの最初の頃は、いろいろ失敗も多く、苦心の連続の日々でした。それに生来、無器用な私は、高等部へ進んでも、職業教育である理療科の実技授業には、いつも、不甲斐無い自分を意識させられていました。

 そんなとき、今はなき先輩の新井勘七、新井宗作両氏等に慰められたり、あるいは学友達に励まされたりして、どうにか危機を脱して来ました。それ等のことは、生徒会活動や演劇活動、修学旅行などの楽しい思い出と共に、私にとっては忘れられない過去の懐かしい事柄の一齣として、脳裏に浮かび上ってくるのであります。

 そこで私は、そうした思い出を、よりリアルに表現するために、はなはだ失礼かとは思いましたが、私の偏見と独断で、登場人物は出来得る限り、実名をつかわせていただきました。私よりも上学年の先輩と年長者、他校の生徒諸氏には敬称を、また当時、公職や他の職に就いておられた方々には職名を付記し、それ以外の親しい仲間達には、敬称を略させていただきました。ご了承をお願い致します。

 最後に、私の書きました拙い点字文を、墨字文に書き直す仕事に、長時間お手伝いをいただいた隣人の内山明子さん、その墨字文の編集と校正に、多大なるご尽力を賜りました妻の友人、田中千鶴子さんに、心から感謝申し上げます。

 また出版にあたり、諸事にお力添えいただきました、佐野印刷の佐野桂一氏、栄花誉志子さんに、厚くお礼を申し上げ、点筆を置かせていただきます。

 平成五年新春

 大嶋康夫

著者略歴

大嶋康夫

1931年3月 埼玉県秩父郡秩父町に生まれる

1951年4月 埼玉県立盲学校へ編入

1960年3月 東京教育大学教育学部、特設教員養成部卒業

1960年4月 静岡県立沼津盲学校、理療科教諭

1964年10月 埼玉県立盲学校教諭

1991年3月 埼玉県立盲学校定年退職、自宅にて理療業開業

奥付

初雁の空の下で

発行 平成五年二月十五日

著者 大嶋康夫

〒350 川越市宮元町五十八-十五

電話 〇四九二(二三)〇七〇三

印刷 佐野印刷

〒101 千代田区三崎町三-十-十九

電話 〇三(三二六一)〇二九二

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